特別編…彼女の記録『カフェ②〜お兄ちゃん』
アスと、その弟シン。
風や光の揺らぎに微笑むその姿は、まるで別の場所から来た子のよう。
この日、ふたりと過ごす時間は、目に見える景色の奥をそっと開いてくれた。
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カフェを出て、三人で並んで歩く。
アスはシンくんの手をそっと握っていた。
シンくんはアスよりも淡い髪色で、前髪が風に揺れて目にかかる。
その隙間からのぞく黒い瞳が、何か見えないものを捉えたようにきらめく。
そしてふいに立ち止まり、ケラケラと笑った。まるで誰かがくすぐったように。
「何かが弟をくすぐってる」アスが小さく笑う。
「アネモイが見えているのかも」彼女が言う。
「ギリシャ神話の風の神?」
「うん。きっと日本に間違えて来ちゃったのよ。それでシンくんを笑わせてる」
アスはその言葉を聞きながら、弟の横顔を見つめていた。
「弟ってね、僕らとは違う景色を見てるんだ。
木の肌を撫でたり、葉っぱが落ちるのをいつまでも見てたり。
風や匂い、光や影…全部をまるごと感じてる」
彼女はしばらく黙ってシンくんを見つめた。
「…そんなふうに世界を感じていたら、きっと世界は想像以上に美しいのかもしれない」
アスは頷き、少し声を落として続けた。
「でも、そのぶん痛みも強く感じるんだ。
髪を切るのも苦手でね。ハサミが近づくだけで涙が出ちゃう。
僕らにはわからないけど、髪にも感覚があって、切られるのが痛いみたいなんだ」
シンくんは、落ち葉を一枚拾い、光に透かして見ていた。
その手はとても優しい。
美しさも痛みも、同じくらいの強さでこの子の中にある――そう思えた。
風がふわりと吹き、シンくんは目を細めた。
それが合図だったかのように、ふっと笑い、アスの手を引いて走り出す。
アスも笑いながら追いかけていく。
二人の背中を見送るその瞬間、
彼女の目に映るアスは、不思議な少年ではなく、ただの優しいお兄ちゃんだった。
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美しさと痛みを、まっすぐに受け取るシン。
髪を切る痛みも、葉の揺れる心地よさも、同じ深さで感じている。
その感覚を思い出すたび、世界はやさしく色づく。




