第146話『あいてる とびら』
言葉を返さないこと。目を合わせないこと。
それは“なにも感じていない”証拠ではありません。
むしろその子のなかには、誰よりも敏感に世界を感じている“ちがう回路”があるかもしれません。
この物語は、そんな弟の姿に触れた、静かな午後の風の記録です。
いつものように、ぼくらはお寺の前で遊んでいた。
アスとぼくと、それから──アスの弟。
弟はしゃべらない。
でも、じっと何かを見つめて、急に動きだすことがある。
この日もそうだった。
境内の横にある古い建物の「とびら」が、すこしだけ開いていた。
弟は、風にふかれるように、すうっとそこに向かった。
そして、ゆっくりと手をのばして──そっと、とびらをしめた。
カチャン、と音がしただけだった。
それだけのこと。
でも、なんだか、空気がすこしだけ、ぬくもった気がした。
ぼくはその静けさのなかで、ただ、それを見ていた。
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そのとき、ふいに後ろから声がした。
「危ないわよ」
弟は扉をもう一度開けて閉める。
「ぼく?何歳?」
おばさんが弟に話しかける。
弟は扉の縁を触れてる。縁を優しくなで微笑む。
「なにこのコ…返事できないの?」
声の主は、近所の知らないおばさん。
お寺の前をたまたま通りかかったらしい。
「あ〜喋れないのね。頭が弱い…ご両親も大変ね…」
同情するようにアス見ながらそう言って、おばさんはすぐに行ってしまった。
弟は何も言わず、ただ静かに、風の音を聴いていた。
アスはなにも言わなかった。
でも、その目は、まっすぐに弟を見つめていた。
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「アス、さっきの……怒ってる?」
ぼくが聞くと、アスは首をふった。
「……怒ってない。言っても、わかんないからね」
そして、こう言った。
「でもさ、弟には見えてるんだよ。
“とびらが開いてる”ってことが。
風がそこから入ってくるってことが」
ぼくはうなずいた。
たしかに、ぼくには気づかなかった。
「返事がないから、ばか? 言葉をしゃべらないから、変?
それって、ぜんぶ自分のルールに合わせてるだけだよね」
アスは、少し寂しそうに笑った。
弟はまだ、とびらの方を見ていた。
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帰り道、ふとアスが言った。
「天才だって言われることもあるけど……ちがうと思う」
「じゃあ、なに?」とぼくが聞くと、
「弟は……“風”に近いんだと思う。
“風”は人間の言葉で返事しない。
でもちゃんと、いる」
それを聞いて、ぼくはふと思った。
弟は、誰よりも世界の“ちいさな音”を聞いているんじゃないかって。
それが、とびらの音だったり、光の動きだったり──
ぼくらが通りすぎてしまう、ほんとうに大事なこと。
弟は、それを“閉じる”ために来たんだ。
この世界の、開いたままのすきまを。
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返事をしないからといって「なにもない」と決めつけてしまう大人たち。
でも本当に“空っぽ”なのは、見ようとしないその人たちの目かもしれません。
弟のような存在を通じて、世界の静かな尊さに、ぼくたちはようやく気づかされます。
閉じたとびらの音が、風のように、心にのこりますように。




