第144話『戻ってきた』
夕焼けが、まるで燃えるように赤いとき。
世界はいつもと少し違う顔を見せる。
その瞬間、忘れていた扉がひらき、
遠くにいたはずの存在が、ふいに“ここ”へ戻ってくる。
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あれは、夕焼けが赤すぎる日のことだった。
タケルは縁側で、ぼんやり空を見ていた。
ふと目をこすって、もう一度見なおす。
「え……?」
門のところに、ひとりの小さな影が立っていた。
薄いパーカーの袖をつまむようにして、風の中でゆれている。
「シン……?」
タケルは、思わず飛び出した。
門の前で、シンはこっちを見て、にたっと笑った。
「シン! ひとりで来たの?」
返事はない。
けれどシンは、風に飛ばされた葉っぱを追いかけはじめた。
「ちょ、ちょっと待って!」
タケルはシンの手をとって、自分の家の玄関まで走った。
「お母さん! シンが来た! ひとりで来たよ! アスの家に電話して!」
台所から出てきた母は、目をまるくした。
「え? シンくん? ひとりで? すぐ連絡するから、ちゃんと見ててね!」
母が慌てて電話をかける声の中で、シンは玄関に並ぶ靴をじっと見つめていた。
そして、タケルの手を引っ張り、自分で靴をぬぎはじめる。
そのまま、すっと家の中へ。
入院する前は、何度も来ていたタケルの家。
入院してからは、どんなに誘っても入ろうとしなかった。
でもいま、シンは当たり前のように家の廊下を歩いていた。
廊下の壁に手を当て、すべらせながら歩く。
途中、壁の小さなキズにふれると、にやっと笑った。
「覚えてたんだ」
タケルが小さくつぶやく。
つづいて、タケルの部屋のドアを開け、木の縁をなでるように触れる。
そして、部屋の中をくるくるまわって、ぴたりと立ち止まる。
押し入れのふすまを開けると、そのまま中にすべりこんだ。
「そこ、シンの場所だったもんね」
タケルはふふっと笑った。
しばらくして、インターホンの音が鳴る。
駆けつけてきたアスとアスの母・ひなこさんが、玄関に立っていた。
「シン……!」
ひなこさんは、涙をこらえながらいった。
「目を離した隙に、急にいなくなって……ずっと、探してて……」
タケルの母は、そっと肩に手を置いた。
「だいじょうぶよ、ひなこちゃん。シンくん、ちゃんとここに来てたの。だいじょうぶ」
アスは靴をぬぎ、静かにタケルの部屋に向かった。
ふすまを開けると、シンは押し入れの中で寝転びながら、車の玩具を動かしていた。
「……戻ったの?」
アスが、ぽつりとつぶやいた。
「戻ったって、どういうこと?」
タケルが聞く。
アスは少し考えてから、言った。
「うん……ときどき、遠くに行っちゃうんだよ。言葉も、気配も、からだも。
でも、今は“ここ”にいる。ちゃんと、“戻ってきた”って、わかるんだ」
タケルは押し入れを見つめる。
シンは、黙って車を走らせている。
その姿は、まるで――
この世界の音やにおいを、少しずつ思い出しているみたいだった。
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押し入れの暗がりで転がる小さな車の音は、
この世界にまだ繋がっている証のようだった。
遠くへ行ってしまう心も、気配も、
ひととき確かに“ここ”に戻る。
その奇跡を見つけた日、
ぼくらは、失われないものがあると信じた。
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