第30話「ことばのまえにあるもの」
空を見ていたら、思い出せそうな気がした。
だけど、それは「ことば」になると消えてしまう。
ぼくたちはいつも、ことばより先に、なにかを感じているのかもしれない。
雨がやんで、アスと歩いていた道に、空の色が戻ってきた。
水たまりに空が映り、そこにまた別の世界があるようだった。
「見て」
アスが空を指さした。
雲のあいだから、光のすじが何本も地面に降りていた。
遠くの山や建物を包むように、ゆっくりと降ってくる。
「薄明光線だ」
とタケルは言った。
でもアスはすぐに言った。
「その名前つけたとたん、ちがうものになった」
「え?」
「名前って、すごいよ。でもこわいよ。
さっきまで『なにか』だったのに、『なにか』じゃなくなった」
タケルは少し黙ったあと、ぽつんとこぼすように言った。
「なんか、わかる…」
沈黙のなかで、タケルはひとつの映像を思い出していた。
それは、前に見たアスの“弟”の姿だった。
静かな公園。
雨のあと、空に光がのぼっていた。
弟は、空を見ていた。
そして、手をひらひらと動かしていた。
その手は、まるで空気のなかの見えないものをなぞっているようだった。
光と影の間をゆれて、ただ「なにか」と通じ合っているみたいだった。
アスは言った。
「弟は、言葉を持たない世界にいるんだよ。ずっと」
タケルは、ひそかに思った。
それは「ことば」よりも、深くて、遠くて、せつない世界なのかもしれないと。
「…ことばって、便利だけど」
「こわれてる」アスが言った。
「なにが?」
「ことばでつかまえようとした時、なにかが逃げる。
でも、つかまえられないままじゃ、人と通じあえない。
ことばって、両方がいる場所」
タケルはアスの言葉に少しうなずいた。
「弟は…ことばを持たない代わりに、ぜんぶ見えてるのかな」
「“無”を知ってるのかも。前の話の続き」
「うまれるまえの、“なにか”?」
アスは空を見た。
そこには光が差し込み、雨上がりの世界をそっと照らしていた。
「その“なにか”は、ことばにできたとたん、消える。
でも、弟は——まだ消してないのかもしれない」
タケルは、そのとき遠くに差し込む光のすじを見ながら、
自分の胸の奥に、小さく静かな“なにか”があるのを感じていた。
名前もなく、形もなく、それでも確かに“あった”もの。
名前をつけると安心する。でも、名前の前にあったものはなんだったのだろう。
アスの弟が見ていた世界には、まだ名前のない“なにか”があって、
それはぼくたちの中にも、かすかに残っているかもしれない。




