第139話『死神』
タケルが兄の家に泊まりに行く、ある夜の物語です。
兄が「枕経」に出かけている間、タケルは偶然“死神”の絵画集を見てしまいます。
ひとりきりの部屋で、想像は膨らみ、やがて恐怖へ――。
そして帰宅した兄との会話が、落語『死神』へと繋がっていきます。
夜の線香の香りと兄の声が、読後に静かに残るような一編になれば幸いです。
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夜。
ぼくは兄の家に泊まりにきていた。
兄はさっき、枕経に呼ばれてお寺を出た。
「ちょっと遅くなる」と言い残して、黒い法衣で静かに出かけていった。
ひとりきりになった兄の部屋。
床に置かれた本の山から、ぼくはふと一冊の画集を手に取った。
背表紙には、金の字で『死神集』と書かれていた。
絵画集には、いろんな国の“死神”が描かれていた。
鳥のくちばしのような仮面をつけた死神。
骨だけの指で魂をすくう死神。
巨大なマントのような影。
「うわ……」
見てはいけないものを見てしまったような気持ちになる。
外では、風がざわざわと木をゆらしていた。
その木の影さえも、死神がこちらをのぞいているように見えてくる。
……ギィ……。
遠くの廊下から、きしむような音がした。
それは、誰かの足音のように近づいてくる。
一歩、また一歩。
(まさか……死神?)
ふすまの向こうに、黒い影が立っている。
――スッ……
ふすまがゆっくりと開いた。
「ぎゃーーーっ!ごめんなさいごめんなさい!まだ死にたくないっ!」
目をぎゅっと閉じて、ぼくは布団の上で丸まった。
「……タケル?」
その声を聞いて、そっと目をあけた。
そこに立っていたのは――兄だった。
黒い法衣のまま、静かに立っていた。
「なんだ……兄ちゃんか……」
ほっとして、全身から力が抜けた。
兄は、すこしだけ笑って言った。
「ただいまタケル。……ごめん遅くなった。着替えてくるよ」
そう言って、兄は静かに部屋を出ていった。
線香の香りだけが、ふわりと部屋に残った。
しばらくして、兄は浴衣に着替えて戻ってきた。
手にはお茶と、カットされたリンゴの皿。
「それ見てたのか?」
兄は、ぼくが開いたままの画集を見て言った。
「うん……。『死神集』って本。絵を見てたら、なんか怖くなって……」
「……そうか」
兄は少しだけ考えてから、ぽつりと話し出した。
「“死神”って聞くと、日本人はあんまりピンとこないかもしれないけど……。
そういえば、落語に『死神』って話があるな」
「落語に?死神?」
「うん。面白い話だよ。
ある男が死のうとしていたら、目の前に死神が現れるんだ。
『おまえ、死ぬにはまだ早い。代わりに、助けたい人間がいたら教えてやろう』ってな」
兄は、リンゴを一切れ口に入れて、静かに続けた。
「その男は死神の言うとおりにして、病人を助ける“名医”として有名になる。
でもね……あるとき、ルールを破ってしまう。
死神に“決してしてはいけない”と告げられていたことを」
「それで、どうなるの?」
兄は、少しだけ目を伏せて、言った。
「……死神に連れていかれるんだよ」
兄はそう言って笑ったけれど、なんだかその笑顔がやさしくて、どこか悲しそうにも見えた。
「ねぇ兄ちゃん」
「ん?」
「枕経って、死神がきそうな場所だね……」
「……かもな」
兄は少し考えて、ぼくの頭をやさしく撫でた。
「でも、死神ってほんとは“悪いもの”じゃないと思う。
死ぬことも、ちゃんと順番があることなんだ。
むしろ、死神ってのは“順番”を見守ってる存在かもしれないな」
兄の手のひらはあたたかくて、さっきまでの恐怖が、ふっとやわらいだ。
部屋の外では、風がまた、木々をゆらしていた。
でも今度は――
その音が、少しだけ心地よく聞こえた。
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“死神”は、恐ろしい存在として語られがちです。
でも、落語『死神』のように、どこかユーモラスで、でもじんわり怖い――
そんな存在として描くと、どこか人間味を感じてしまうのかもしれません。
兄の優しさと、夜の静けさと、
生と死のあいだに漂うような、ふしぎな夜のお話でした。
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