第137話『後編〜(宇宙ばばあのうた) 見えないところで』
雨あがりの夜。
ふと、本堂の方へ足が向いた。
だれかと話したくなるときが、ある。
それが、兄であることも、ある。
そんな夜に、ピアノの音が聞こえてきたんだ。
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本堂の隅に置かれた古いアップライトピアノから、静かな旋律が流れていた。
タケルはそっと足音をしのばせて、本堂の畳を歩いた。蝋燭のゆらぎと、どこか懐かしい音が、薄暗い空間に溶け合っている。
兄が弾いている。何の曲かはわからないけれど、優しくて、少し切ない。
「兄ちゃん…ちょっと話いい?」
タケルの声に、兄はゆっくりと手を止めた。ピアノの音がふっと消えて、本堂に静けさが戻る。兄は頷きタケルの方を見た。
「学校にね、船越先生っていう先生がいてさ、ボク、正直……変な人だって思ってた」
兄は少し笑って、タケルのほうを見た。
「音楽の?」
「うん。兄ちゃん、知ってるの?」
「懐かしいな。俺が小学生のときからいた先生だよ。まだいらっしゃったんだね」
「うそー」
「……あの頃から、ちょっと変わった方だったけど」
「兄ちゃんの頃からやっぱり変なひとだったんだね。」
「でも…悲しい人」
兄はそう言って、手を膝にのせたまま、視線を少し遠くへやった。
それから、静かに言った。
「交通事故でね」
タケルは「え?」と声を漏らし息をのんだ。
兄は姿勢を変え、タケルの方をまっすぐ向いた。語る声は、あくまで穏やかだった。
「ある雨の夜。家族で車に乗って出かけてたらしい。先生の息子さんのお誕生日だったそうだよ。一年でいちばん幸せな日だった。でも、いちばん不幸な日になった。居眠り運転のトラックが衝突して――旦那さんと、息子さんは即死だった。先生も…」
「じゃあ……みんな……」
兄はそっと頷いた。
「うん。でも、しばらくして先生は……息を引き返した」
言葉のあとに、ふたたび静けさが落ちた。
外では虫が鳴いている。本堂の奥で、灯明の火が、ふるえていた。
「……アスがね、先生と話してた。なんだかふつうに。ボクは……みんなと同じで先生をちょっと馬鹿にしてた。みんなと同じ側にいた…。アスが先生と普通に話てるのを見てボク、自分が恥ずかしくなって…」
タケルは、少し間をおいてつづけた。
「目に見えるものが全てじゃないんじゃないかって…。アスがね、先生に言ったんだ。"先生また会えますか?"って」
兄は何も言わず、タケルの話に耳を傾けていた。
「先生の話、アスはぜんぶ知ってたみたいだった。ボクは……ぜんぜん知らなかったのに」
兄は微笑んで、タケルを見つめた。
「そう。タケルが感じたように、人の目に見えるものなんて、ほんの一部なんだ。音も、光も、命も、ね」
兄はもう一度ピアノに手をのせた。何かを探すように、指先が鍵盤に触れた。
「先生が、戻ってきた理由は誰にもわからない。でも、もしかしたら――」
音がひとつ、低く鳴った。
「大事なことを、伝えたかったのかもしれないね」
タケルは、仏様を見上げた。そのすぐ横にあるピアノ。音の出る仏具みたいだ、とふと思った。
兄の奏でる音が、またゆっくりと、夜の空間にほどけていった。
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「見えてるモノがすべてじゃない」
心の奥から響く言葉。
誰かが何かを伝えたいと願うとき、
その想いは、かたちを超えて、音になるのかもしれない。
たとえば、それが静かな夜のピアノの音だったとしても――。
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