第129話『不在のパーティー前編 』
ことばのない時間に、なにかが聞こえるときがある。
視線の奥に、見えないものが宿るときがある。
それは、ふしぎな沈黙。
こわさと、やさしさと、静かな真実のようなものがまざっている。
目をそらさず、そっと見つめることから――
今日の物語は、始まります。
シンが退院して一週間が過ぎた。
タケルは退院パーティーに誘われアスの家を訪れた。
アスの家の玄関をあがると、あたたかいカレーのにおいがした。
けれど、足をふみ入れたとたん、どこか時間が止まったような静けさを感じた。
「……ただいま。タケルも来たよ」
そうアスが言っても、返事はない。
タケルは靴をぬぎながら、耳をすませる。
どこかの部屋でドアがゆれる音。
階段をのぼるような、かすかな足音。
でも、人の気配はない。
ひなこさんの声が奥から聞こえた。
「ごめんね。シン、きょうはちょっと“むずかしい”みたい」
「……ううん、いいよ」とタケルが言ったときだった。
ふと、視線を感じて、タケルはそっと顔を上げた。
リビングと廊下のあいだ。
半分だけ開いたふすまの、影の中。
そこに――立っていた。
シンが、音もなく。
色素の薄い、肩までの髪。
クセひとつない、やわらかな髪が、肩にふれている。
前髪のすき間から、こちらを見ていた。
まっすぐに。まっくろな瞳で。
声も出さず、動かず、指もささず、ただ、見つめていた。
タケルと目が合っているのか、通りすぎているのかもわからない。
でもたしかに、そこにいる――というよりも、“そこにだけ重力がある”ような、そんな気配。
タケルは、一歩、ふすまの方に近づいた。
その瞬間。
――たたん。
どこからか、やさしくふまれたような足音。
タケルがふり返ったときには、もう、誰もいなかった。
「……シン?」
アスが呼んでも、返事はない。
けれどすぐあと、まるで“背中に息がかかったような”感覚がして、タケルはびくりとふりむいた。
そこに――いた。
ふたたび、シンが。
廊下の向こう。ふすまの影。
やっぱり、じっと、こっちを見ていた。
「……どうやって、うしろに……」
タケルがつぶやく。
「そういう時期なんだ」
アスが、ぽつんと言った。
「言葉も、顔も、ぜんぶしまって。だれか来ると、ぜんぶ消して。……なにも言わないけど、“見てる”んだ。ずっと」
タケルは、うなずこうとして――ふと、気づいた。
さっきと、髪の流れがちがう。
風もないのに。動いてもいないのに。
まるで、さっきの“あの子”とは、ちがう誰かみたいだった。
「……ねえ、アス」
タケルが声をひそめて聞いた。
「“見てる”って、なにを……?」
アスはしばらく黙ってから、言った。
「たぶん、ぼくたち」
タケルは思わずアスを見つめる。
「でも、ぼくたちは――ただの“うわぎ”なのかもしれない」
アスは静かに続けた。
「ことばを着て、顔を着て、動き回ってるだけの、“うわぎ”なんだ。
あの子にはそれが見えてる。……きっと。
ぼくらが“本当じゃない”ってことも」
タケルはそのとき、
たしかに、自分の顔が“うわぎ”みたいに浮いて感じられた。
そのとき、奥の部屋から、ケーキの箱を開ける音がした。
なにげない、家の中の、ふつうの音。
でもタケルには、それがまるで、
「この世界の音」にふたたび引きもどされるような合図に思えた。
リビングへ向かおうとしたとき。
ふと、タケルの耳に、なにかが聞こえた。
声じゃなかった。ことばじゃなかった。
でも、たしかに――あれは、声のまえの、なにかだった。
タケルはふり返る。
もう、廊下には誰もいなかった。
“ことば”は、ぼくらの姿を作ってくれる。
でも、ときどき、それを全部ぬいだ誰かに出会うと、
なにが本当なのか、わからなくなる。
けれど――見ていること。感じていること。
それは、いつだって、まちがいじゃない。
今日の沈黙が、あなたの中で、静かにひびきますように。
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