第126話『くろのセカイ』
人の心には、ふれられたくない「影」があります。
でもその影は、消すべきものではなく、そっと寄り添う光を待っているのかもしれません。
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弟の退院の日。
病院に迎えに行く前、タケルはアスと少し早く家を出て、街をぶらぶらしていた。
商店街を抜け、小さな路地に入ると、ひときわ雰囲気のあるカフェの前を通りかかった。
ちょうどそのとき、カフェのドアが開き、中から見慣れた女性が出てきて手を振る。
「タケルくんとアスくん。お店の中から見えたから」
兄の彼女──露葉だった。
「あっ、お姉さん」
タケルとアスは揃ってぺこりと頭を下げた。
「今日はシンの退院日なんだけど、早く出ちゃって、ちょっと時間つぶしてるんだ」
タケルが言うと、露葉はふっとやわらかく微笑んだ。
「それなら…少しお茶でもどう? パフェ、おごるよ」
「「わぁい! うれしい!」」
二人は顔を見合わせ、声をそろえて言った。
カフェの中に入ると、露葉が先ほど座っていた席には、開きかけの画集が置かれていた。
表紙には「クロノセカイ」という文字。
そして、テーブルの上には、まだ湯気の立つ珈琲のカップが二つ。
「誰かといたの?」
タケルが無邪気に尋ねると、露葉の瞳がわずかに揺れた。
その沈黙を、アスがさらりと埋めた。
「さっきまで兄ちゃんと一緒だったんだよね?」
露葉が返事をする前に、アスはテーブルの画集に目を落とし、そっと指で表紙をなぞった。
「『クロノセカイ』って、宇宙みたいな名前だね」
露葉はほんの少し目を伏せ、静かに笑った。
そして顔を上げ、言った。
「“クロ”って、どんな色も飲み込んでしまいそうだけど、逆なんじゃないかって私は思うの」
「逆って?」
「黒はね、何かを消すんじゃなくて…引き立ててくれる色。たとえば夜空の星とか、黒い額縁の絵とか」
アスが頷く。
「うん。黒って、本当は優しいんだよ。ちゃんと、見せてくれる」
「ふーん、なんか変な話。でもちょっとわかるかも」
タケルがそう言ってパフェを口に運ぶ。
露葉の漆黒の髪が、窓辺から差す光にゆれていた。
ふと動いた拍子に、髪の間からのぞいた耳飾りの石が、深い森のような緑に光った。
その美しさが、黒という色の奥にある、彼女の心の色を思わせた。
彼女がふと物思いにふけるとき、そこに深い影が落ちる。
それは彼女の悲しみか、それともまだ誰にも語られていない時間なのか。
アスは、テーブルの二つのカップをそっと見た。
何も言わず、ただ画集を開く。
“黒”は、きっとなにも奪わない。
静かに、そばにいるだけ。
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黒という色は、悲しみではなく、やさしさを包む静けさかもしれません。
アスのように、それを見つけられる目を持てたらいいなと思います。




