特別編…彼女の記録『青の世界』
いつかの朝、ゆっくりと流れるカフェの時間。
香ばしい珈琲の香りと、ページをめくる音。
枯れ葉が舞う音楽のように、二人の会話もふとした瞬間に生まれ、やさしく消えていく。
このお話は、そんな朝の続きのような午後。
絵画の静けさのなかで、言葉よりも深く交わる心の時間を描きます。
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──別の日、朝の光に包まれたカフェ。
アスと彼女は、挽きたて珈琲の香りに包まれながら、画集をめくっていた。
木枯らしの名残がテラスをすり抜け、店内には枯れ葉ジャズピアノが静かに流れている。
「……枯れ葉」
彼女が、ぽつりと声に出す。
アスがくすっと笑う。
「好きなの? 枯れ葉」
「うん。哀愁漂うおじさんの、人生の終着点みたいな感じがして……好きなの」
その言葉に、アスがもう一度くすくす笑った。
「好きが、面白いね」
年齢よりずっと大人びたアスが、笑うと年相応に見える。
彼女は珈琲を置きながら、ふと提案した。
「アスくん、今日ちょっと時間ある?」
「うん。なにかあるの?」
「近くの小さな美術館で、“青の世界”っていう展示やってるの。一緒に行かない?」
「青の世界……なんかいいね。行きたい」
──カフェを出て、イチョウの並木道を抜けると、小さな美術館が現れた。
館内は、まるで深海のような静けさに包まれ、「青」の絵画が世界を満たしていた。
ふたりは言葉を交わさず、歩く速度も合わせず、それぞれのペースで絵と向き合った。
出口に近づいたとき、彼女はふと振り返る。
アスが、一枚の絵の前でじっと立ち尽くしていた。
その後ろ姿が、まるで絵の一部のように見えた。
──出口のベンチで、彼を待つ。
待つ時間も、悪くない…むしろ好き。
やがてアスが静かに出てきた。
「ごめん、お姉さん。つい……見惚れて」
「ううん」
微笑んで、彼女は紙袋を差し出す。
アスが中をのぞき、少し驚いた表情を見せる。
それは、さきほどアスがずっと見ていた、東山魁夷の画集だった。
「……ずっと見てたから」
彼女は言った。
「東山魁夷の“青”、私も好き」
アスは、そっと微笑んで言った。
「弟が好きな色だから」
「ありがとう、お姉さん」
その声は、青い絵の余韻のように、やさしく胸に残った──。
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誰かの好きなものを、ただ一緒に見る。
言葉を交わさず、歩幅を合わせようともしないけれど、
ふと振り返ると、そこにいる。
彼女にとっても、アスにとっても、それはきっと「信頼」という名の静かな光。
東山魁夷の「青」に心をほどかれながら、
二人の間には、言葉のいらない時間が流れていました。
アスが好きな「青」が、弟の好きな色だと知っていた彼女。
彼女が贈った画集は、アスのためであり、
きっとその向こうにいる、弟のためでもあったのでしょう。
アスが喜ぶのは、自分が癒やされたときではなく、
大切な人が笑ってくれたとき。
そのことを、彼女は誰よりも知っていたのかもしれません。




