特別編…彼女の記録『金の光、画集の朝』
朝のカフェには、特別な時間が流れています。
まだ一日の音が始まる前、心の奥にだけ届くような静けさ。
この回は、そんな時間の中でふと交わされた、アスと彼女のやわらかく小さな対話を描きます。
光に包まれた、絵のような朝のひととき。
そこには、誰にも見せない世界を大切にしてきた彼女の心と、
その世界にそっと寄り添うアスの姿があります。
一人でいることの美しさと、静かに通じ合うことのぬくもりを──
金のしおりのように、心に挟んでいただけたら嬉しいです。
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朝のカフェ。
扉の前に立ったその時──
「こんにちは、お姉さん」
ふいに声をかけられて振り返ると、そこにいたのはアスくんだった。
制服じゃない、今日は私服。白いシャツに、うすいグレーのパンツ。
肩にかけた斜めのショルダーバッグが、なんだか少し大人っぽい。
「偶然ね」
笑いかけると、彼も少し照れたように目を細めた。
「もし時間あるなら……お茶しない?」
そう聞いてみたら、アスくんはうなずいて、私のとなりに並んでガラス扉を押した。
カフェの中は、静かな音楽と、朝の光の匂いがしていた。
私はいつものようにブラック珈琲と、小さなパンケーキを。
アスくんは、アイスミルクティーとトースト。
席に着いて、バッグから金色の画集を取り出す。
ページを開くと、静かにきらめく世界が、そこに広がった。
「アスくん。狩野派って、知ってる?」
ストローでミルクティーをくるくるかき混ぜながら、彼は答える。
「狩野探幽なら、知ってる」
「……私も、探幽が好きなの」
つい、うれしくなって、彼の横顔を見つめてしまう。
アスくんは少し笑って、「本当に好きなんだね」と呟いた。
私はうん、と言って、画集のページをめくった。
墨のにじみ、曲線のしなり。まるで呼吸しているみたい。
「狩野派って、400年も続いたの。
その果てない時間のことを思うと、胸がつまるの。
ずっと続いてきた美と、誰かの魂が、まだここにあるって──」
私は指で一筆一筆をなぞるようにして、ブラック珈琲をひと口。
アスくんは、トーストにジャムを塗って、口に入れたあと言った。
「……魂までも次の世代に渡していったような、
深く、おもく、美しい世界だね」
「だから好きなの」
そう言って、私はまたページをめくる。
金のしおりが、私の指の動きに合わせてふわりと揺れた。
しばらく黙って本を見つめていたアスくんが、ふと顔をあげて言った。
「お姉さん。兄ちゃんと婚約したんだってね。……おめでとう」
私は、ゆっくりと顔をあげて、軽く目を閉じて、またそっと開いた。
「ありがとう」
それだけの言葉に、全部を込めて、微笑んだ。
そして、もう一度コーヒーに口をつける。
「アスくん。私、このカフェ、朝によく来てる。
画集を読むの、好きだから……。
アスくんも、時間がある時は、一緒にお茶して、お話しよう?」
アスくんはミルクティーの氷を、静かに音を立てて揺らしたあと、
「うん。楽しい」
と、少し照れくさそうに言った。
カフェの窓から差し込む光の中、私の金のしおりがまた揺れた。
この世界のどこかで、たしかに美は続いている。
言葉より深く、静かに、誰かの中に。
──この朝の記憶も、そうであればいいと思った。
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人は、すべてを分かち合わないからこそ、深く寄り添えるのかもしれません。
理解しきれない、届ききらない、だからこそ尊い距離というものがあります。
彼女が愛する「狩野派」の美のように、
代々受け継がれながらも、触れきれない魂の余白。
それはきっと、誰かと生きていくうえで失ってはならない静けさでもあるのでしょう。
この朝のやりとりが、
彼女にとってもアスにとっても、
何かかたちのない贈り物となって、心に残りつづけることを願って──。
読んでくださって、ありがとうございました。




