28話「なにもないところに、ある」
「無」とは本当に「何もない」ことなのでしょうか?
もしかするとそこには、まだ言葉を持たない「存在の気配」があるのかもしれません。
弟の見つめる光と影は、ぼくらが忘れてしまった何かを思い出させてくれます。
「無の前に、なにがあったと思う?」
前の日、アスがそう聞いた。
でも、ぼくにはうまく答えられなかった。
「“なにもない”って、ほんとうにあるのかな」
その言葉が、ずっと頭の中でぐるぐるしていた。
そして今日、ぼくはアスと一緒に、弟に会いに行った。
夕方の公園。
アスの弟は、地面に落ちた光を見ていた。
木々の間から差し込んだ陽の光が、ゆれていた。
弟はその光に、手をかざして、ひらひらとゆらしていた。
「空、見ないんだね」と言うと、
アスがぽつりと言った。
「空は、見えすぎる。無に近い。」
それは唐突で、だけどアスらしい言い方だった。
「弟は、“ここ”しか見えない。“ここ”しか、生きられない。」
アスは弟のとなりにしゃがみ、同じ目線になった。
「“なにもない”って、思ってるのは、こっち側だけ。」
弟の指先が、光の中で揺れていた。
次の瞬間、影に気づいたのか、影もひらひらと動かしはじめた。
「なにもないとこ、弟には いちばんたくさん あるとこ。」
アスは空を見ず、地面を見ていた。
夕方の光が、やさしく影をのばしていく。
「ぼくたちは、“無”を恐れる。けど、弟は“有”のなかで、息ができないことがある。」
それを聞いたとき、胸の奥がひんやりとした。
無って、ほんとうは、
なにもないんじゃなくて、
まだ名前のない、ものたちのゆりかごみたいなものなのかもしれない。
ぼくは空を見上げた。
でもその日は、空が少しだけ遠く感じた。
弟の見ていた“ここ”の方が、ずっと静かで、ずっと深くて、
そこには、はじまりの前の何かがあったような気がした。
【今日のうちゅうかんさつノート】
「なにもない」と おもってた ところに、
ほんとうは なまえの ない ものたちが いた。
うまれるまえの なにかは、
きっと いまも どこかに のこっている。
アスの弟の世界には、「意味」ではなく「気配」がある。
名づける前の宇宙のように、輪郭のないものたちがただそこにいる。
それは27話「うまれるまえのなにか」で触れた“無の前”に、そっとふれるような感覚でした。
“何もない”と感じる場所にこそ、ほんとうの「なにか」が、静かに息づいているのかもしれません。




