第123話『切ないを感じた瞬間』
この小さな対話を書いていて、日本語にしかない「切ない」という言葉のことを思いました。
その言葉にしか包めない感情が、たしかにあるように思います。
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病院の帰り道…
アスと別れたあと、ぼくはひとりで坂をのぼっていた。
夕焼けが道路の端をにじませて、風が静かにゆれていた。
どこかの家からカレーの匂いがして、
おなかがすいているはずなのに、心はぽっかり穴があいてた。
坂のてっぺん近くで、兄の姿を見つけた。
黒い袈裟をまとって、手に小さなカバン。
あいかわらず、歩くときは少し前かがみになる。
でも今日は、その背中が、ちょっとだけ遠くに見えた。
「兄ちゃん」
ぼくが声をかけると、兄は顔をあげて、すこし目を細めた。
「おかえり、タケル。……どこ行ってたんだ?」
「うん……弟のお見舞いにアスと行ってた」
兄は少しだけ目を伏せて、静かに歩き出した。
「お父さんとお母さんが、いまちょっと出てたみたいで……」
「…うん」
「戻るまで、アス、弟のそばにいるって」
「……そっか」
兄はそれだけ言って黙り込んだ。
何かを考えているような横顔だった。
ぼくたちは、そのまま並んで歩いた。
話さない時間が、やけに長く感じたけれど、
それはそれで、悪くなかった。
「ねえ、兄ちゃん」
「ん?」
「“切ない”って……どんな気持ち?」
兄はすこし空を見あげて、答えた。
「胸が……きゅって、なる。そんな感じかな」
ぼくはうなずいた。たぶん、それで合ってると思う。
「“彼方の光”って曲、兄ちゃん知ってる?」
「うん。あれは……祈りみたいな曲だよな」
「アスも、そう言ってた」
「そうか……」
「アスの弟、ずっとそれだけ聴いてるんだって。毎日」
「……」
「声も出さずに、じっと、音だけ聴いてるんだって」
「……シンくん……」
兄は、小さくつぶやくように言った。
「五歳なのに……」
「うん」
「なんか、それだけで、ぼく、苦しくなる」
「……それが、切なさ、かもしれないな」
遠くの病院の上に、マリア像が光の中に見えた。
その静かな姿が、胸の奥を、そっとしめつけた。
「兄ちゃん……心って、なに?」
兄は、ふと立ち止まり、ぼくを見て
「アスと同じ事聞いてる」っと呟き
それから、やさしい声で言った。
「言葉にならなくても、そばにあるもの。
音とか、まなざしとか、手のぬくもりとか……
静かなものの中に、宿るよ」
その言葉は、ぼくの中に、そっとしみこんでいった。
ちょうど、夕暮れの光が、音もなく街を染めていくように。
これが……きっと、切ないってことなんだ。
静かな道を歩きながら、タケルはまた少し、大人になる準備をしているのかもしれません。
目に見えないものと、言葉にならない想いに、そっと手を伸ばしながら。




