第121話『彼方の光』
これは、「タケル」と「アス」と、その弟の、小さな午後の記録です。
病院の白い部屋に流れていたのは、
ことばではない、けれど確かに“祈り”のような音楽。
やさしさって、涙って、なに?
そんな問いの答えが、静かに響いてくるような時間でした。
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病院の白い廊下を、ぼくらは小さな音を立てながら歩いた。
今日は、もうすぐ退院するアスの弟に会いに来た。
病室のドアが静かに開いて、
中ではひかりが差し込む窓辺に、弟が座っていた。
ヘッドホンをつけたまま、動かずに、なにかを聴いている。
そばには看護婦さんがいて、優しく声をかけていた。
「お父さんとお母さんは?」
タケルがそっと尋ねた。
「ちょっと出てるみたい」
アスは短く答えて、弟の横にしゃがみこむ。
「なに聴いてるの?」
「…最近、全然しゃべらなくて。ずっと、リベラの『彼方の光』。」
アスの声は静かだった。
ヘッドホンの奥、ほんのかすかに、天使のような少年の声がもれていた。
「リベラ? 彼方の光って、どんな曲?」
「……祈るような、曲。」
そう言うと、アスはポケットから小さなチョコレートを取り出し、
そっと、弟の目の前に差し出した。
弟がアスを見つめる。
アスは自分の耳に、人差し指でトントンと触れた。
「……みみ」
弟はヘッドホンをゆっくり外して、アスに渡す。
代わりにチョコレートを手に取った。
「チョコとヘッドホン、交換か」
タケルがぽつりと言うと、アスは小さくうなずいた。
ヘッドホンをタケルに渡すと、そこから流れてきたのは、
静かで、あたたかくて、
でもどこか遠くの、
とても切ない声だった。
ぼくは思った。
5歳の彼が、ずっとこの曲を聴いてるって、
それだけで、なんだか胸がぎゅっとなる。
その姿は、悲しくはないのに、
どうしてこんなに、切ないんだろう。
――窓の外、病院の中庭にあるマリア像が、
夕陽の光を受けて、やわらかく照らされていた。
その足元には、風に揺れる白い花が咲いていた。
まるで誰にも気づかれない祈りのように、
そこに、ずっと前からあったみたいに。
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「彼方の光」は、リベラという少年たちの声楽グループによって歌われた曲です。
静かで、美しく、どこか遠いところを想わせる音。
それはときに、言葉よりもまっすぐに、心を揺らします。
この物語の弟のように、
ただ静かに、何度もその曲を聴きたくなるような日があります。
やさしさって、声にしない気持ちかもしれない。
だれにも気づかれないように、そっと咲いている白い花のように。
わたしたちはそれを、祈りと呼ぶのかもしれません。




