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特別編〜龍賢の視点『見えない祈り』

夏の終わり空気はまだ熱を残しながらも、どこか静けさをまといはじめる午後。

誰もいない本堂の、誰も見ていない祈り──。


この話では、「見えないもの」と「届くもの」について、アスと兄・龍賢の対話を通じて探っていきます。

目に見える形がなくても、心や思いは確かにそこにある。

静けさの中で交わされる言葉のひとつひとつに、気づかないまま過ぎていく大切な問いが隠れています。


ふと、誰かのために祈りたくなる。

そんな感覚に、どこかで触れてもらえたら嬉しいです。



---


──静かすぎる午後だった。

夏が終わるころ、風がひときわ細くなるその時期──。


本堂の床は磨かれ、光を吸ってしんとしていた。

経机の向こうに、小さな白木の箱が置かれている。身寄りのない遺骨。

誰もいないはずの空間で、龍賢は静かに手を合わせていた。


その声は、仏の名ではなく、もっとやわらかくて淡いものだった。

雲間からこぼれるような、静かな祈り。


祈りを終え、ふと後ろを振り返る。

──そこに、アスが座っていた。

気配も音もなかった。まるで最初から、そこにいたかのように。


「……俺を驚かせるの、好きなのか?」


龍賢の声は苦笑していたが、目はすでにアスを見抜こうとしていた。


アスは伸びた髪をかきあげた。

色素の薄い、乾いた麦のような色の髪。光をまばらに通す目元。

まるで、そこに“いるふり”をしているように見えた。


「病院から帰ったら、兄ちゃんの声が聞こえてきて」


そう言って、窓際にふらりと立ち上がる。

障子をすべらせて開け、外の光を顔に受けた。

片手を外に出して、空をなぞるようにひらひらと動かす。


「弟の体調は?」


「……うん。ご飯も、少しだけ食べられるようになったよ」


ほんとうに嬉しそうな声ではなかった。

けれどそのまなざしは、たしかに柔らかく揺れていた。


「お母さんは元気?」


「……うん」


短く返して、アスは外に視線をやる。

庭の苔が乾きかけていた。風が通り抜け、ろうそくの火がふるえた。


「ねぇ兄ちゃん」


アスがまたそっと座りなおす。

龍賢のすぐ近く、ほんの手の届く距離に。

その動きが、どこか無音で、風のように感じられた。


「誰も見てないのに、どうしてお経あげてるの?」


龍賢はゆっくり息を吸い、そのまま言った。


「人が見ていようがいまいが、祈りは同じだよ。

命は、一人で生まれてきたんじゃない。だから送り方も一人じゃない」


「じゃあさ。死体がなくてもお経ってあげるの?」


「……あげるよ。たとえ姿がなくても、心があるなら届く」


アスは、ぽつりと言った。


「……モーツァルトのレクイエム、好きなんだ。完成しないで死んだんだって」


「知ってる」


「最後まで歌えなかった祈りは、どこに行ったんだろうね」


風が、仏具の鈴をわずかに鳴らした。

アスが目を細め、兄を見る。


「ねぇ兄ちゃん。ぼくが死んだら──お経、あげてくれる?」


龍賢はその言葉に返す声を探す前に、アスの目を見た。

その瞳は、まっすぐだった。ひとつも濁っていない。

でも、どこか遠く、答えを求めていないような目だった。

ほんの少し笑んでいる唇が、怖いほど無邪気だった。


「そういうこと言うもんじゃない」


「……もしもの話」


「お前、何を見てきた?」


その問いには、何も返さなかった。

アスは立ち上がり、ゆらぐろうそくの火を見つめ、

すっと指をのばして、親指と人差し指で──消した。


「心って、なに?」


唐突に、そんな言葉が落ちる。

龍賢は驚かない。

静かに間をおき、答える。


「……心は、観えないものを観てる存在。

目に見えることより、見えないことの方に、深く動くものだと思ってる」


「兄ちゃんって、ずっと今の兄ちゃんだった?」


「は?」


アスは首をかしげた。


「いつからそんなふうに、思慮深くなったの?

昔はもっと、笑ってた?」


「“思慮深い”なんて言葉を子供が使うな」


「じゃあ、“子供らしさ”ってなに?」


「……タケルみたいなのだろ。あいつは純粋すぎるけど」


「じゃあ、ぼくは純粋じゃないの?」


その声が、また無音に近かった。

気づけばまた、隣にぴたりと座っていた。


「……俺に、何か話したいんじゃないのか」


「話したいことがないと、ここに来ちゃダメ?」


その声が、まるで風のように胸に吹いた。

押し返す言葉が見つからないまま、龍賢はただ黙った。


「……冗談」


ふっと笑って、アスは視線をそらした。


「弟、退院できるかもって」


そのとき、廊下の向こうから足音がして──

タケルが走り込んできた。


「兄ちゃん!アス、ここにいたんだ!

弟、来週退院できるかもって!アスのお母さんから今、電話きたって!良かったねアス」


「……うん。うれしいよ」


アスはまた笑った。

その笑みが、さっきより幼く見えて、龍賢は少し安心した。


タケルと並んで本堂を出ていくその背中を、

龍賢はしばらく見送っていた。


風はまだ、すこし涼しかった。




この話にこめたのは、「死」や「心」を特別なものとして扱うのではなく、

日々のなかにある当たり前の会話のように描くということでした。

祈る人の姿、届けようとする声──。

そこには“見えない誰か”への想いが、たしかにあるのです。


アスは少し不気味で、少し切なくて、けれど透明なまなざしで世界を見ています。

そのまなざしに、私たちの心もふと映し返されるかもしれません。




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