第118話『ぼくのからだ、どこまでがぼく?』
ぼくたちは、生まれたときから「からだ」を持っているけれど、
それがほんとうに「自分のものだ」と感じるようになるには、
時間がかかるのかもしれない。
息が苦しいとき、痛いとき、思いどおりに動かないとき、
「この体は、自分なのかな?」って思うことがある。
今回のお話は、タケルの家にしばらく暮らすことになったアスと、
病院にいる弟のこと、そして『どろろ』という物語をとおして、
「体と心」そして「自分とは何か」を考えていくものです。
不完全でも、痛みがあっても、
“じぶんの体を取り戻す”って、どういうことなんだろう。
タケルの部屋のふすまが、そっと開いた。
「……ただいま」
小さな声でアスが帰ってきた。
お寺の玄関を通るとき、すこしだけ足をとめたのをタケルは知っていた。
病院のにおいが、まだ体に残っているのかもしれない。
「弟、どうだった?」
タケルはランドセルをおろしながら、そっと聞いた。
アスは返事のかわりに、畳の上にぺたりと座った。
「……すこしだけ、よくなってた」
「そっか」
「でも、起き上がるのはこわいみたい」
「こわい?」
「からだを動かすと、息がつまる。だから、体が“信用できない”って感じ……」
アスはそう言いながら、手のひらを見つめていた。
「体が……信用できない?」
「うん。弟、ぼくのことは信用してるけど、自分の体は、してない気がする」
タケルは言葉につまった。
アスの言葉には、時々、ちょっとだけ重たい空気がまざっている。
でも、それはタケルがちゃんと受けとらなきゃいけない感じだった。
ふと、部屋のすみにある本に目がとまった。
兄が読みかけで置いていった漫画。
「アス。『どろろ』って知ってる?」
「どろろ?」
タケルは一冊をアスに渡した。
「百鬼丸っていう男の人が、うまれたときに体を鬼にうばわれてさ、それをひとつずつとりもどす話」
アスは、パラパラとページをめくりながら、目を止めた。
「この人……耳も、目も、手も、なかったの?」
「うん。でも、自分の体をとりもどしていくの」
アスは黙って読みつづけた。
ときどき、目を伏せる。ときどき、ページをもどす。
やがて、ぽつりとつぶやいた。
「……体をとりもどすって、“ぼく”がふえていくってことかな?」
「ふえていく?」
「うん。目があると、見えるものがふえる。耳があると、きこえることがふえる。でもさ……それって、“うれしい”ことばっかじゃないよね」
タケルは思い出した。
弟が、夜中に咳きこんで、泣きながら耳をふさいでいたこと。
「音がこわい」って。
「……そうだね」
「弟も、すこしずつ“ぼく”がふえていってるのかもしれない」
「でも、“ふえるぼく”って、いいことばっかじゃないよね」
二人はしばらく黙っていた。
障子の外、夕方の風が草のにおいを運んできた。
「ねぇ、タケル」
アスが言った。
「体って、どこまでが“ぼく”なんだろう?」
「え?」
「手がぼく? 目がぼく? 声がぼく? ……それとも、こころがぼく?」
タケルは返事に迷った。
だけど、自分の胸に手をあてて、言った。
「全部……なのかな。わかんないけど。でも、どれが欠けても“さびしい”って思う気がする」
アスはうなずいた。
「弟も、きっとさ。全部そろってなくても、“じぶんのこと”をはじめてる途中なんだよね」
「うん。少しずつ、“ほんとの自分”に会いに行ってるのかも」
部屋のすみに置かれたどろろの単行本が、夕日で赤く染まっていた。
ふたりは黙ってそれを見ていた。
何かをとりもどすように。
──そして、その向こうでは、
まだ病院のベッドの上で、アスの弟が、小さな指をほんの少し動かし“じぶんのからだ”を、信じてみようとしてる。
『どろろ』の主人公・百鬼丸は、体の多くを失って生まれました。
でも彼は、ひとつずつ体を取り戻しながら、“自分”を確かめていきます。
アスの弟もまた、病気と向き合いながら、
少しずつ「じぶんの体」を信じていこうとしていました。
それはきっと、誰にとってもとても大切なこと。
ぼくたちは、自分の手をじっと見つめてしまうときがあります。
それが「自分の一部だ」と思えなくなる瞬間も、あるかもしれません。
でも、どんなときも――
「これは、ぼくだ」と思える小さな一歩を、
きっと誰もが歩いているのだと思います。
あなたの体は、あなたのもの。
あなたの心も、あなたのもの。
そして、あなたは、あなたのままで、大切な存在。




