特別編〜龍賢の視点『戒名のいみ』
夜は、音を吸いこむ器だ。
誰かの声も、ため息も、問いかけも。
その中でアスは、ことばより先に、まなざしでふれてくる。
見透かすように、祈るように。
今夜、沈黙の奥にある「ほんとう」が、そっと揺れる。
電球の灯りが、畳の目に細い金色の線を落としていた。
本堂の空気は重くはないのに、なぜか深く沈んでいる。
龍賢は白木の位牌に向かっていた。
墨をふくませた筆の先で、一画一画、命を手放すように名前を書いていく。
そのときだった。
「……兄ちゃん」
音もなく、気配だけが近づいていた。
振り向くと、そこにアスがいた。
寝巻きのまま。髪は少し湿っていて、肌はすこし白すぎると感じるほど白かった。
目の奥には光のようなものがあるのに、それがどこにあるのかわからない──
そんな、見つめられると呼吸が浅くなるような目をしていた。
「……気づいてるんでしょ?」
アスはそう言って、口元にわずかな笑みを浮かべた。
その笑みは、あいまいな感情ではなかった。
まるで、相手がどこまで知っていて、どこまで知らないかをもう知っている者のような、
静かな自信に満ちた笑みだった。
龍賢は、筆を筆置きに戻した。
そして深く息をつきながら、ゆっくりアスと向き合う。
「……何のことを?」
アスは一歩、近づいた。
その動きには、ためらいも演技もなかった。
「ぼくの家族のこと」
色素の薄い瞳が、まっすぐ龍賢を見ていた。
その瞳はどこか、人を選んで見抜くようなところがある。
問いかけの言葉には揺らぎがなかった。
なのに、どこかで、龍賢の内側を鋭く撫でていくような優しさもある。
まるで、“答えなくていいよ”と“答えてもいいよ”が、同時に置かれているような。
「アスは……俺に、答えてほしいのか?」
龍賢がそう問うと、アスはふっと視線を外す……ことはなかった。
ただ、軽く膝をつき、斜めに座りながら、兄を見上げて言った。
「ねぇ、戒名って──なに?」
「……どうして急に?」
「別に。ただ、知りたくなっただけ」
アスはそう言いながら、何かに触れるように自分の膝をなでていた。
落ちついた仕草だったが、どこかで「意味を持たせようとしない」無垢さがあった。
龍賢は少し考え、それから答えた。
「戒名は……生きてた時の名前じゃ仏さまの世界では通用しないから。
新しく旅をするための、向こうの世界の名前だよ」
アスはうなずかなかった。
でも、兄の言葉を“答え”として受けとったようだった。
そのまま、何かを決めるように言う。
「じゃあ、生きてる人が、もう向こうの名前を持ってたら、どうする?」
その一言が、静かに空気を裂いた。
龍賢はその問いに、すぐには返せなかった。
アスはそれを見越していたように、小さく笑った。
子どもが、大人の沈黙を楽しんでいるときのように──
けれどその笑みには、どこかとても遠い場所からの孤独がにじんでいた。
「兄ちゃんって、そういう時も答えないんだね。
……ちゃんと、お坊さんだ」
アスは目を逸らさないまま、そう言った。
静かに、淡く、でも確かに。
人の中にある“うしろめたさ”のようなものを、触れもせずに炙り出していく口調だった。
龍賢は、肩をすこし落として、ぽつりと返した。
「……信じてるよ、いろいろ」
「なにを?」
「アスを」
アスは、それに何も答えなかった。
ただ、灯りのなかに少しだけ身を引いて、夜の深さに耳を澄ました。
そのまま立ち上がると、兄の隣にあった未完成の位牌を見下ろした。
「いい名前だといいね、その人」
それだけを言って、アスはすっとその場を離れた。
龍賢が返す言葉を見つける前に。
──本堂の隅に、アスの足音だけが、すこしだけ残っていた。
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ことばにできなかった想いは、
いつも静かに灯のように揺れている。
アスの問いは、問いのままでいい。
それでも胸に残るのは、あの夜、
誰にも見せない優しさが
ほんの一瞬、こぼれたから。
世界が真実を語らなくても、
まなざしが、そっとそれを教えてくれる。




