第115話『僕たちが出来ること』
あの子の目が見つめていたのは、
静かな水面のような心の声。
言葉にならない願いが、
そっと、まわりの人を動かしていく。
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兄が帰ってきた。
夕暮れの光が、仏間のふすまに淡く滲んでいた。
彼女は、タケルの隣に静かに座っている。
お茶の湯気がふんわりと立ちのぼっていた。
タケルは、顔をあげる。
「ぼく、アスたちのために、何かしたい」
兄は、ほんの少し微笑んだ。
そして、やわらかく問い返す。
「……タケルは、何をしたらいいと思う?」
タケルは、ぽつぽつと話しはじめた。
「アスのお母さんに、“時間”をあげたいなって思った。
兄ちゃんと同じ年齢で、子供が二人いて
ずっと子育てしてる…
たぶん……
映画を見たい日も、遊びたい日も、あったと思う。
でもそれをずっとがまんして……
きっと、一生懸命すぎて、心がつかれちゃったんじゃないかな」
兄と彼女が、そっと目を合わせる。
彼女は、ふと窓の外に目を向けた。
濡れ縁に落ちる夕日のかけらが、やさしく揺れている。
閉じた本の角を指先でなぞりながら、ぽつりと話した。
「……タケルくん、やさしいね。
そうだよね。
私たちが悩むのは、いつも“自分”のことだけど、
アスくんのお母さんは、ずっとアスくんやシンくんのことばかり考えてる。
その重さって、全然ちがうね…」
兄は静かに、うなずいた。
「……そうだね」
それだけ言うと、部屋を出ていった。
しずかに扉が閉じる。
それだけだった。
湯呑みの中の光が、少しゆれていた。
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優しさは音をたてない。
だけど、たしかに伝わっていく。
手渡されたものが、
静かに未来を照らすこともある。




