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第113話『心』

人はみんな、言葉にできないものを抱えて生きている。

それは悲しみかもしれないし、なにか大切なものの不在かもしれない。


けれど、誰かが隣にいてくれるだけで、

その「抱えているもの」はすこしだけ軽くなる気がする。


これは、そんな「静かなそばにいること」の話。


---

アスが、しばらくうちに泊まることになった朝。

目を覚ますと、隣の布団が畳まれていた。


ぼくはそっと廊下に出て、まだ眠っている家の中を静かに抜けた。

山門のほうから風が吹き抜けてくる。石段の先に、アスの背中が見えた。


墓地の一番奥で、じっと立っている。

肩に朝日がさして、色素の薄い髪がゆれる。

まるで光といっしょに、どこかへ消えてしまいそうだった。


「アス」


呼びかけると、ゆっくり振り向いた。

目を細めて、こっちへ歩いてくる。


「おはよう、タケル。もう起きたの?」


「うん。起きたら、アスがいなくて。ちょっとびっくりした」


「散歩」

短くそう言って、口元だけで少し笑った。


 


朝ごはんを食べて、学校へ向かう。

校門の上に、雲の切れ間から日がさしていた。

教室では、いつもと同じ時間が流れていく。


アスは、特別おしゃべりでも、無口でもない。

でも、今日はほんの少しだけ、笑い方が軽かった。


 


帰り道、ぼくはたわいもない話を続けていた。


「それでね、美術の先生が……」


「タケル。ごめん、先に帰ってて」


歩道の途中で、アスは足を止めた。

そのまま角を曲がって、もう見えなくなった。


 


家に帰り縁側に座っていると、兄が静かにお茶を運んできた。

カラン、と湯呑みが鳴る。


「どうした、タケル?」


「兄ちゃんって、誰かが何考えてるか、わかる?」


「ん……難しいね」

兄はしばらく黙って、湯呑みに視線を落とした。


「人はみんな、自分のことすらよくわからないまま、生きてるときがある」

「苦しくても笑ってたり、楽しくても沈んでたり」


「本音で話せる相手がいるって、実はすごく特別なことなんじゃないかな」

「そんな相手が一人いるだけで、ちょっと生きやすくなる」


「タケル……アスと話してみるといいよ」


ぼくは、小さくうなずいた。


「うん……ちゃんと、話してみる」


 


夕方。空がうす青から橙へ変わりはじめたころ、アスが帰ってきた。

タケルは静かに立ち上がって声をかけた。


「ねぇアス、どこ行ってたの?」



アスは靴を脱ぎながら、少し間を置いて答える。

「病院。母さんが泣いてるんじゃないかって、気になって」


縁側に座る二人。

薄くなっていく陽射しが、柱の影を長く引き伸ばしていた。


「お母さん?…大丈夫だった?」


「……うん。でも、たまにね、空っぽみたいな顔をする」


「空っぽ?あんなに明るいのに?」


アスは少しだけ間を置いてから、静かに語りだした。


「弟がね自閉症だって気付いた時、母さんは壊れたんだ」

「夜になると泣いて、自分を責めて、眠れなくなって……」

「人に触れられなくなった」


「……あるときから、ぼくたちの世界じゃない場所に母さんの心は行ってしまった」

「こことはちがう、重力のない星とか――ぜんぶが静かで、誰もいない宇宙みたいなとこ」


「ぼくと弟は帰ってこない人の帰りをずっと待ってた」


「……お母さんは、帰ってきてくれたの?」


「ある日、急にね」

「弟の顔を見て、ふっと笑ってそれから、ぼくと弟をぎゅっと抱きしめた

でも、壊れたものが戻ったわけじゃない。

 でも、帰ってきた。それだけでよかった」


風が、軒の風鈴を鳴らした。


「強くなった、というより………

ぼくらが壊れたことを、黙って持ち続けてるんだと思う。 母さんも、ぼくも、弟も」



ぼくはうつむいていた視線を上げて、まっすぐにアスを見た。


そして、少し照れくさそうに言った。


「……でも今は、ぼくがアスのそばにいるよ」


アスは少し目を見開いて、ほんのすこしだけ微笑んだ。


日が沈みかけていた。


空が、オレンジと青の境目で静かにほどけていく。 



---

アスは、感情を声にすることが少ない子だ。

けれど彼の言葉の奥には、深く静かな宇宙のような感覚がある。

「強くなった」という言葉に隠れているのは、

ほんとうは「壊れたこと」と「それでも生きていること」の痛みかもしれない。

でもタケルは、そういうアスの「そばにいる」。

それは言葉よりも深い優しさだと思う。


誰かの傷を「なおす」のではなく、

そのままの形で、そっと寄り添う。

そんな物語。

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