特別編…龍賢の視点『アスの弟』
この話は、アスと弟、そして龍賢の「ある夜」を描いた特別編です。
大人であっても、子どもであっても、「頼ること」に必要なのは年齢ではなく、信頼できる誰かの存在かもしれません。
静かな夜の中で交わされた、心と心の対話を見つめていただけたらうれしいです。
─夜─
本堂の片隅に置かれたピアノ。葬式の後は決まって鍵盤に触れたくなる。
ショパンの《別れの曲》が夜の闇に響く。弔いの余韻をたたえ静かに響く…。
棺の中で眠る少女の顔が、何度も脳裏によみがえってくる。
目を離した隙に、公園の池に近づき、見つけたときにはもう息がなかった─事故だったそう。誰も悪くない。誰のせいでもない。
泣き叫ぶ母親の声。何も言えず佇む父親。喪服の列。
世界が墨を流したように沈み、誰の心にも影が落ちていた。悲しみに引きずられてはいけない。自分のために弾くピアノ。
そのとき、スマートフォンが震えた。
画面に映る名前は、珍しい相手だった。
「兄ちゃん……ごめん、今、大丈夫?」
アスの声は、少し掠れていた。
龍賢は通話を切り、すぐに車に乗り込んだ。
夜道を走りながら、胸の奥に嫌な予感が静かに広がっていった。
*
玄関先でアスの母親が出てきた。
頼りない細い体、髪は少し乱れ、顔は熱で赤らみ、目の下には深い影が落ちている。
「……すみません。お願いいたします」
色素の薄い瞳に涙を浮かべ、かすれる声でそう言うと、少しよろけるようにして玄関に戻っていった。
龍賢は黙ってうなずき、弟をそっと抱きかかえる。
痩せた体。浅い呼吸。
車の後部座席で、弟はまるで眠るようにぐったりとしていた。
病院に着くと、アスがすぐに受付に向かい、手続きを始めた。
龍賢は待合室の椅子に腰をおろし、無言でその背中を見つめていた。
──あの子は、やっぱり不思議な子。
タケルが初めて連れてきたときから、そう感じていた。
10歳の少年らしさが、どこか欠けている。
感情の波を抑えるような目の奥に、遠くを見ているような影があった。
まるで、弟の親代わりで通訳のような立ち居振る舞い。
小さな手で弟の呼吸器を支え、医師の言葉に頷く様子が、心に刺さる。
やがてアスが戻ってきた。
「兄ちゃん、シンはどう?」
「呼吸は落ち着いたみたい。でも、しばらく入院したほうがいいって。今日はこのまま寝かせておいて、また明日来てくれってさ」
「……よかった」
アスは静かに頷いた。
「父さんに連絡した。明日、来るって」
病院を出て、車に乗り込む。
夜の街を走るなか、兄はゆっくりと口を開いた。
「……アス。お母さん、いつから体調悪かったの?」
「四日前」
「その間、ご飯は?」
「弟は偏食だからね、食べられるものは決まってる。ぼくでも作れる。お母さんには、お粥」
「弟の面倒、アスがずっと見てたの?」
「面倒ってほどじゃない。一緒にいただけ」
「学校は?アスが最近学校来ないってタケルが言ってた」
アスは少し黙ってから、小さくつぶやいた。
「兄ちゃんはさ……年齢が窮屈だって思ったこと、ある?」
「ん。あるねよ。大人って、年齢に理想みたいなものをくっつけるから、窮屈になること、ある」
アスは車窓の外を見ながら、静かに言った。
「兄ちゃんが思う窮屈さより多分ぼくの窮屈はもっと…。
ぼくはさ…10歳なんだ。母親がいないと弟を保育園にも連れていけない。夜に病院にも行けない……」
その言葉に、龍賢ははっとする。
10歳という数字を、重たい鎖のように感じていたのは、自分も同じだった。それでも伝えたい事があった。
しばらく黙ってから、優しく言った。
「でもね、アス。頼ることに年齢は関係ないよ」
「年齢が窮屈なら、逆にその年齢を利用すればいい。大人を、利用すればいい」
アスは驚いたように兄を見て──
ふっと、小さく笑った。
「ありがとう」そうつぶやいた。
---
幼い弟を抱えながら、必死に日常を守ろうとしていたアス。
そして、それに気づいた兄がそっと差し出した言葉──
「年齢を利用すればいい」「大人を利用すればいい」
子どもであることが壁になるなら、その壁をどう使うか。
アスがふっと笑ったとき、小さな救いの光が灯ったように感じました。
--




