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特別編…龍賢の視点『アスの弟』

この話は、アスと弟、そして龍賢の「ある夜」を描いた特別編です。

大人であっても、子どもであっても、「頼ること」に必要なのは年齢ではなく、信頼できる誰かの存在かもしれません。

静かな夜の中で交わされた、心と心の対話を見つめていただけたらうれしいです。



─夜─

本堂の片隅に置かれたピアノ。葬式の後は決まって鍵盤に触れたくなる。

ショパンの《別れの曲》が夜の闇に響く。弔いの余韻をたたえ静かに響く…。


棺の中で眠る少女の顔が、何度も脳裏によみがえってくる。

目を離した隙に、公園の池に近づき、見つけたときにはもう息がなかった─事故だったそう。誰も悪くない。誰のせいでもない。

泣き叫ぶ母親の声。何も言えず佇む父親。喪服の列。

世界が墨を流したように沈み、誰の心にも影が落ちていた。悲しみに引きずられてはいけない。自分のために弾くピアノ。


そのとき、スマートフォンが震えた。

画面に映る名前は、珍しい相手だった。


「兄ちゃん……ごめん、今、大丈夫?」


アスの声は、少し掠れていた。


龍賢は通話を切り、すぐに車に乗り込んだ。

夜道を走りながら、胸の奥に嫌な予感が静かに広がっていった。



玄関先でアスの母親が出てきた。

頼りない細い体、髪は少し乱れ、顔は熱で赤らみ、目の下には深い影が落ちている。


「……すみません。お願いいたします」


色素の薄い瞳に涙を浮かべ、かすれる声でそう言うと、少しよろけるようにして玄関に戻っていった。


龍賢は黙ってうなずき、弟をそっと抱きかかえる。

痩せた体。浅い呼吸。

車の後部座席で、弟はまるで眠るようにぐったりとしていた。


病院に着くと、アスがすぐに受付に向かい、手続きを始めた。

龍賢は待合室の椅子に腰をおろし、無言でその背中を見つめていた。


──あの子は、やっぱり不思議な子。


タケルが初めて連れてきたときから、そう感じていた。

10歳の少年らしさが、どこか欠けている。

感情の波を抑えるような目の奥に、遠くを見ているような影があった。


まるで、弟の親代わりで通訳のような立ち居振る舞い。

小さな手で弟の呼吸器を支え、医師の言葉に頷く様子が、心に刺さる。


やがてアスが戻ってきた。


「兄ちゃん、シンはどう?」


「呼吸は落ち着いたみたい。でも、しばらく入院したほうがいいって。今日はこのまま寝かせておいて、また明日来てくれってさ」


「……よかった」


アスは静かに頷いた。


「父さんに連絡した。明日、来るって」


病院を出て、車に乗り込む。


夜の街を走るなか、兄はゆっくりと口を開いた。


「……アス。お母さん、いつから体調悪かったの?」


「四日前」


「その間、ご飯は?」


「弟は偏食だからね、食べられるものは決まってる。ぼくでも作れる。お母さんには、お粥」


「弟の面倒、アスがずっと見てたの?」


「面倒ってほどじゃない。一緒にいただけ」


「学校は?アスが最近学校来ないってタケルが言ってた」


アスは少し黙ってから、小さくつぶやいた。


「兄ちゃんはさ……年齢が窮屈だって思ったこと、ある?」


「ん。あるねよ。大人って、年齢に理想みたいなものをくっつけるから、窮屈になること、ある」



アスは車窓の外を見ながら、静かに言った。


「兄ちゃんが思う窮屈さより多分ぼくの窮屈はもっと…。

ぼくはさ…10歳なんだ。母親がいないと弟を保育園にも連れていけない。夜に病院にも行けない……」


その言葉に、龍賢ははっとする。

10歳という数字を、重たい鎖のように感じていたのは、自分も同じだった。それでも伝えたい事があった。


しばらく黙ってから、優しく言った。


「でもね、アス。頼ることに年齢は関係ないよ」

「年齢が窮屈なら、逆にその年齢を利用すればいい。大人を、利用すればいい」


アスは驚いたように兄を見て──

ふっと、小さく笑った。

「ありがとう」そうつぶやいた。


---


幼い弟を抱えながら、必死に日常を守ろうとしていたアス。

そして、それに気づいた兄がそっと差し出した言葉──

「年齢を利用すればいい」「大人を利用すればいい」

子どもであることが壁になるなら、その壁をどう使うか。

アスがふっと笑ったとき、小さな救いの光が灯ったように感じました。



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