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第112話『大人になるということ』

夏の夜、ふとんを並べて話す時間は、不思議と心の奥をひらかせる。

家族のこと、未来のこと――普段は言えない小さな本音が、風に運ばれてにじみ出る。

弟の入院をきっかけに、アスがタケルの家に泊まることになった。

その夜ふたりは、静かな闇の中で、大人と子ども、その境界を見つめながら語り合う。



---

弟が喘息で入院した。

夜がとくに心配で、アスのお母さんは病院に泊まりこむことになった。


何か出来ないかってぼくのお母さんとお父さんが話し合って、アスのお母さんに提案した。


「よかったら、アスくんを是非うちで預かりますよ」って。



***



アスと、アスのお母さんが夕方やってきた。

ぼくの家にアスやシンの送り迎えをしにしょちゅう来る。

シンの誕生会も以前お寺でしたり、授業参観や学校行事でも顔を合わせるとぼくのお母さんとずっと話し込んでる。

彼女はどこかふわっとした雰囲気で、でもきちんと礼儀正しくて――

自然と場の空気に、やさしく溶けこむ人。


「……本当に助かります。どうぞよろしくお願い致します」


玄関で、彼女は深々と頭を下げた。

その姿に、お母さんは笑って応えた。


「いいのよ、かたいかたい。気にしないで。……ひなこちゃん」


やさしい呼びかけに、アスの母――ひなこさんは、もう一度ぺこりと頭を下げた。

その仕草は、やっぱりどこか小さな動物みたいで、

気を抜いてると見とれてしまいそうだった。


「アーくん、ちゃんといい子にしとくのよ」

ひなこさんはアスを見つめギュッと抱きついた。

アスがちょっと体を引いても、彼女はそれを逃さず、

小さな子どもがぬいぐるみを抱えるみたいに、アスの背中に顔をうずめた。


白くて細い指。袖からのぞくやわらかそうな手首。ちょっと丸まった爪。

まるで「なにか」をそっと守ろうとしている手だった。


「うん……ぼくは元から“いい子”だけどね」


「アーく…アス、そういう言い方やめなさい…」


そう言って、今度はぼくの方にもくるっと向き直ると、じっと見つめ同じようにギュッと抱きしめてきた。


ふわっと、あたたかいにおいがした。

甘いミルクティーのような優しい香り。

白いシャツにやわらかなカーディガン。色素の薄い髪をざっくりとひとつに結んでいて、

どこかの古本屋で静かに本を読んでいる“妖精さん”みたいだった。



その夜、ぼくとアスはふとんを並べて寝た。

窓を少しだけあけて、夜風を入れる。カーテンがゆらりと揺れた。


「ねぇアーくん。アーくんのお母さんと、アーくんって……ほんとに親子?」


ぼくがそう言うと、アスは枕にうつぶせのまま、ぼそっと答えた。


「一応。実の親子」


「顔はすごく似てるんだけど、全然ちがうよね。なんていうか……やわらかくて、かわいいお母さんだなって思った」


「そうだね。誰よりも真剣で、でもすごく抜けてるから心配になるよ」


「アスのお父さんって、どんな人?」


「普通のおじさん」


「なにそれ。ぜんぜん答えになってない」


アスもタケルもちょっと笑った。


「でもさ、ずっと思ってたんだけど、アスのお母さんって凄く若くない? なんか……兄ちゃんと変わらないくらいに見える」


「うん。兄ちゃんと同じ年」


「えっ?うそ…兄ちゃんが、25か26歳だから…え?16歳くらいで産んだって事?すごいっ!」


「父親はね、母さんがぼくを産んだ時には大人だったったから…10歳以上年上。」


「なにその年齢差カップル! すごいドラマじゃん……なんで結婚したの?理由気になる!」


「へ〜知りたいの? 今度教えてあげる」


アスはそう言って、天井を見たまま、つぶやいた。



「もっと小さい頃はさ、早く大人になりたかったんだ。大人って、自由に見えたから」


「うん。ぼくも。兄ちゃんみたいにずっとなりたいって思ってた」


しばらく沈黙が続く。アスがまた口を開いた。


「でも……大人になるって、自由になるんじゃなくて、責任が増えることなんだね」


ぼくは、小さくうなずいた。


「兄ちゃんね、お葬式が終わると、必ず実家のピアノを弾きに来るんだ。昨日は“別れの曲”を弾いてた」


アスは横を向いた。


「……兄ちゃんも、泣くの?」


「ううん。お坊さんってね、辛くても泣いてはいけないんだって。静かに、悲しみを見つめないといけないって、兄ちゃん言ってた」


「兄ちゃんらしいね…」とアスは呟いた。


「実はさ、アスをうちで見たらどうかなって、兄ちゃんが、お母さんとお父さんに話したんだよ」


アスは目を細める

「……そっか」と言って微笑んだ。


「大人になるって、ぼくたちが思ってるより、ずっと大変なんだと思う。でもさ、ぼくは兄ちゃんみたいに、優しい大人になりたいな」


アスは、しばらく黙っていた。

それから、まっすぐ前を向いて、静かに言った。


「……そうだね」


虫の声が、少し遠くへ流れていった。



窓から入る夜風と、遠くで響く虫の声。

そのひとときの会話は、すぐに流れてしまう夢のようでもあり、確かに心に刻まれる現実でもあった。

大人になることの意味を、まだ小さな声で探り合う二人。

やがてそれぞれの道を歩むとき、この夜の記憶はきっと、胸の奥で静かに灯り続けるだろう。



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