第104話『やさしいおばかさん(後編)』
優しさって、ほんとうは何だろう。
怒らないこと? 笑っていること? 損をしても黙っていること?
タケルとアスは、一冊の古い絵本から、
「やさしさ」と「弱さ」のあいだにある小さな違いを見つめます。
見えにくかったものが、
いなくなったあとに、静かに浮かびあがるのかもしれません。
アスが開いた絵本のページからは、
古びたモノクロの線画が浮かび上がっていた。
絵本の主人公は、笑顔が得意なひとりの青年。
誰かが重い荷物を持っていれば手を貸し、
誰かが落ち込んでいれば、そっと花を届ける。
それでも、まわりの人は言う。
──あの人、ほんとにお馬鹿さん。
──ああすれば楽できる。やらせておけばいい。
──何をしても怒らないんだから。ほら、また笑ってる。だってあいつは優しい馬鹿だから。
青年は、ただ優しいことをしていた。
見返りも、ありがとうの言葉もなくても。
タケルはページをめくる手を止めた。
「……なんでだろ。なんでこんなに悲しくなるんだろ」
アスはしばらく黙っていたけど、小さく言った。
「この人、怒らないんじゃなくて、怒れないんだよ。たぶん」
タケルはアスの顔を見た。
「怒り方が、わからないんだ。
それに、優しいことをしてるって自分では思ってない。
ただ、目の前に困ってる人がいたら、手が動いちゃう。
……きっと、そういう人なんだと思う」
「……それって、やっぱり“おばかさん”なのかな?」
アスは、窓の外の光の方を向いた。
「“おばか”って、何を基準に言うんだろうね。
言い返せないこと? 損すること? 利用されること?」
「……ねぇアス」
タケルは、膝の上の絵本を見つめながら呟いた。
「やさしいことって、
誰かにバカにされることなのかなって、ちょっと思ったけど……
それでも誰かが、やさしいことで助かるなら、
ぼくは……それでいいかな」
アスはふと、タケルを見て言った。
「ねえ……
“やさしいお馬鹿さん”、ちょっとタケルに似てるよね」
タケルは、少しだけ目を伏せた。
けれど否定もしなかった。
すると、運転席で黙って聞いていた兄が静かに言った。
「でもタケルは、ただやさしいだけじゃない。
ちゃんと怒るし、泣けるし、人に“だめだよ”って叱れる。
それって、本当にやさしい人にしかできないことだと思う」
アスはふっと笑って、タケルの横顔を見た。
「うん」
と、短く頷く。
しばらくの沈黙。
それからアスが、ぽつりと呟いた。
「“やさしいお馬鹿さん”ってね、
たぶん、優しいことしかできなかった人なんだ。
でも――
その人がいなくなった時、
はじめて、みんなが思い出すんだよ。
……優しかったなあ、って。
……もう会えないって、悲しむんだよ」
窓の外で、風が少しだけ揺れた。
タケルは黙ったまま、その言葉を胸の中で繰り返していた。
後部ミラー越しに、兄がそっと微笑んでいるのが見えた。
タケルはそれに――気づかないふりをした。
アスが手に取った絵本は、
誰かの心にあった“ほんとうの優しさ”を、そっと映していたのかもしれません。
「それでも誰かが助かるなら、それでいい」
――その言葉に宿るものは、強さなのか、弱さなのか。
日本画家・鶴岡政男が言った「事ではなく物を描く」。
言葉ではなく、まなざしで描かれる優しさも、きっとあるのです。




