第104話『やさしいおばかさん(前編)』
強くあることは、弱さを知らないことじゃない。
やさしくあることは、賢さを知らないことじゃない。
この世界で「やさしい」ままで生きることの、むずかしさと、うつくしさ。
もしもその姿を見つけたなら、
きっと、あなたはすでにその優しさに触れていたのかもしれません。
──やさしさは、ばかげたことなのかもしれない。でもそれが、世界を変えることもある。
図書館の前。初夏の陽射しが、石畳にまだらな影を落としていた。
アスはベンチに座り、空を見ていた。
やがて、タケルの兄の車が静かに滑り込んでくると、立ち上がって近づいた。
助手席の窓が開き、タケルが顔を出す。「おはよー」
「おはよう」とアス。
後部座席に乗り込む前に、アスは兄に向かってまっすぐ言った。
「兄ちゃん。今日はよろしくお願いします」
兄はハンドルに手を置いたまま、クスッと笑った。
「はい、あらたまってるね〜」
車が静かに図書館を離れていく。
後部座席では、アスとタケルが並んで座っていた。
車内にクラシック音楽が微かに流れている。
タケルが、ふと思い出したように呟いた。
「ねえアス。『縞模様のパジャマの少年』っていう映画、知ってる?」
アスは窓の外に目を向けたまま、「うん」と言った。
「ジョン・ボインの小説が原作だね。映画版もある。…観たの?」
「うん。さっき、兄ちゃん来るまでに家で観たんだ。DVD、前から家にあったんだけど、パッケージがなんか…ファンタジーっぽくてさ。タイトルもかわいいし」
「うん。確かに」
「でも、全然ちがった。あれ…強制収容所の話なんだね。ナチスが出てくる。…観終わって、なんか、胸がぎゅーってなった」
アスは黙っていた。
「ぼくさ、思ったんだ。ぼくが大人だったら、助けたい。あの子も、あそこにいた人、みんなのこと、ぜんぶ」
アスは静かにうなずいた。
少しして、彼がバッグの中から一冊の絵本を取り出す。
装丁が奇妙で、でもどこか温かい。エドワード・ゴーリー風の、不思議な絵が描かれている。
「ねえ、これ、さっき図書館で借りたんだ」
アスはタケルに表紙を見せた。
『やさしいおばかさん』
「……優しさって、なんだと思う?」
(つづく)
“やさしい”という言葉は、
ときに人を守り、ときに人を傷つけることもあります。
やさしい人ほど、その矛盾に心をすり減らしてしまう。
けれど、タケルのように、
誰かの痛みに耳を傾ける気持ちは、きっと強さのはじまりなのかもしれません。




