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第100話『そこに在るだけで』

「ただ、そこに在ること」。

それだけで意味になる瞬間があります。

この回は、目立たず動かず、けれど確かに存在する“何か”に

ふと心が動かされる体験を描きました。

風景の中に、私たちは何を見るのでしょう。



秋のはじめの空は、どこかスモーキーな色をしていて、風が吹くと空気がひとつ古びたフィルムのように感じられる。 タケルとアスは、学校の帰り道、並んで歩いていた。


「ねぇタケル。『事』じゃなくて『物』を描くって、どういうことだと思う?」


アスが突然そう言った。


「え?どういうこと?」


「ふつう絵を描くときって、なにか『こと』を描こうとしない?たとえば、運動会の絵を描いてくださいって言われたら、走ってるとこを描くとか。だけど『物』っていうのは……ただそこに在る、ってこと」


「うーん、よくわかんない。じゃあ、何もしてないのを描くの?」


「たぶんね。だけど、それがすごくむずかしいんだって。そこに“ある”ってだけのことが、描く理由になるなんて、ふしぎじゃない?」


タケルは眉をひそめたまま考えていた。


土手沿いの道を歩いていると、川の近くにぽつんと座って絵を描いている老人がいた。風に吹かれて白いシャツが少しなびいている。


「アス、あの人……絵、描いてる」


タケルが指さすと、アスも立ち止まった。


二人は静かに老人に近づいた。


画板の上にあったのは、河原に転がる石と草と、何も起きていないただの風景。それがまるで何かが“起きている”ような絵になっていた。


「……これ、すごいね」


タケルが小さな声でつぶやくと、アスは隣でにっこりした。


「ね、描いてあるのは“事”じゃなくて“物”でしょ。ただ在るだけの石や草なのに、なんだか呼吸してるみたい」


タケルはもう一度、絵をじっと見た。どこかで見たことのあるただの石ころが、今この瞬間だけ命を持っているように見える。


「ねぇアス」 「うん?」 「ぼくたちも……だれかに見られてると、そこにちゃんと“いる”って感じするね」


アスは少し笑って、秋の空を見上げた。


「うん。見つめることって、描くことと似てるのかもね」


帰り道、風が草をなでる音がした。


タケルは、夕陽に照らされた小石を見つめて、そっと思った。


──だれかが見てくれるだけで、そこにあるって、ちゃんと意味になるんだね。




日本画家・鶴岡政男は「事ではなく物を描く」と語りました。

それは、出来事や意味を追うのではなく、ただ“そこに在るもの”と向き合う姿勢。

アスが言った「物を描く」という言葉は、そのまなざしに近いように思います。


風に揺れる草、転がる石、静かに佇む人──

意味を背負わなくても、美しくて、確かに存在している。


この世界には、「説明できなくても大切なもの」が、きっとある。

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