特別編〜お盆の記憶①『円の記憶』
誰にでも会いたい人がいる。
誰にでも忘れられない人がいる。
その想いは、時間を超え、形を変えても胸の奥に灯り続ける。
今日は、ぼくの家族にまつわる、静かな夏の物語を語ろうと思う。
あの日のことは、誰も触れなかった。
父も母も、まるで何もなかったかのように日常を繰り返している。
タケルも、あの夕暮れを胸の奥にしまい込んでいた。
──触れてはいけない。
言葉にしてしまえば、何かが壊れてしまうような気がしていた。
夏の終わり、兄の家の縁側。
グラスに注がれた冷たいジュースの表面に、窓の向こうの青空が揺れている。
タケルはストローをくわえ、ためらいながらもあの日の話を切り出した。
兄はうなずきもせず、ただじっと、目をそらさずに聞いていた。
やがて兄が低くつぶやく。
「──へぇ…驚いたな。それ、父さんのお兄さんだよ」
タケルはグラスを握る手を止めた。
「お兄さん…?」
兄は少し間を置き、言葉を選ぶように話しはじめた。
「爺ちゃんから聞いたんだ。父さんには年の離れた兄貴がいた。名前はまどかだけどみんな“エン”と呼んでたそう…円。
子供のころは三人でよく遊んでたんだって。
父さんと母さんは同い年で幼なじみなのは知ってるよね?母さんはずっとエン兄さんに恋してたらしい。
タケルと俺くらい年が離れてたから、子供の恋だったそうだけど。
優しくて、聡明で…母さんにとっては憧れそのものだったらしいよ」
兄の声は、少しずつ遠い記憶をたどるように柔らかく沈んでいく。
「でも──祭りの帰りだったそう。エン兄さんは事故で亡くなったって。交通事故。
三人で祭りに行ったはずなのに、どうしてか一人で道を戻ったんだって。
なぜ、あんな場所にひとりでいたのか…いくら聞いても二人は何も言わなかったって。だから誰にもわからない」
縁側に流れる風が、急に冷たく感じられた。
兄はグラスの水滴を指でなぞりながら、少し笑みを混ぜて続けた。
「父さんってさ、あんなふざけた人だけど…
毎日、エン兄さんが亡くなった場所に行ってるんだって。どんな日も、雨の日も。もう三十年くらい」
タケルは息を飲む。
「……三十年も、毎日?」
「そう。あんなダラダラし人がね」
「なんか…父さんじゃないみたい」
「そうだな。俺たちが見てる父さんは、ほんの一部なんだと思う。
親である前に、一人の人なんだと思う」
タケルはストローをくわえたまま、しばらく空を見上げていた。
雲がゆっくりと形を変え、遠くで風鈴が小さく鳴っている。
「……ぼくは、お兄さんがいたことすら知らなかった」
「そうだな。きっと辛すぎたんだ。
この寺に、エン兄さんのことはいろいろ残ってるよ。
爺ちゃんからしたら息子だから。爺ちゃんも命日には必ずお経をあげてるけどあまり触れない」
兄の言葉は淡々としているのに、その奥に深い水底のような静けさがあった。
タケルは、冷めかけたジュースを一口飲み、胸の奥に小さな痛みと温もりが同時に広がっていくのを感じた。
父が父である前に、一人の弟だったことを──初めて知った。
兄の話が静かに終わり、ぼくはしばらく黙っていた。
遠くで蝉の声が夏の終わりを告げる。
ふと、胸の奥にぽっと灯がともった気がした。
──そして、母もまた、誰かに恋い焦がれる少女だったのだ。
その言葉は、夏の空気に溶けて、ぼくの心に静かに残った。
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過去の痛みも、言葉にしなかった想いも、
誰かの胸の中で静かに輝き続ける灯のようなもの。
ぼくたちはそれを見つめ、時に忘れ、また思い出す。
そして、あの日の夏と同じ風が、今日も優しく吹いている。




