第099話〜後編『シン』
世界の見え方は、人の数だけある。
でも、ぼくらはつい、自分の見え方だけを「ふつう」だと思ってしまう。
ある夏の午後、弟を見ていて、ぼくはそれが間違いかもしれないと気づいた。
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「ぼくも、その曲、好き」
いつのまにかアスが縁側に立っていた。
最初からそこにいたような顔で、そっとタケルの隣に腰を下ろす。
「お母さんはシンに過保護だから」
アスは静かにシンの方を見た。まだ音楽に合わせて手を動かしている。
「音が、見えてるみたいだった」
タケルは黙って弟を見つめていたが、ゆっくりと口を開いた。
「エアコンとテレビが、弟の中で“セット”なんだよ。どっちか切ると、泣く。でも片方をつけると、もう片方もつける。彼の中で何かが繋がってるんだと思う」
アスは目を細めた。
「つながってる世界。ぼくらが切り離してるものが、彼の中ではちゃんとつながってるのかも」
「それからさ、アンパンマンのチョコを食べるとき、弟が“赤、黄色、茶色、黒、アンパンマン”って言ったんだ。ただのキャラじゃなくて、色として見てる。そう思ったら、びっくりした」
「見る、じゃなくて、“感じる”んだろうね」
「色鉛筆も。30本を、一度バラバラにしたのに、ちゃんと順番に並べ直した。何も見てないのに。彼の中では、全部ちゃんと“ある”んだよ。そういう世界が」
アスはふっと目を伏せた。
「言葉が少ないからって、世界を知らないわけじゃない」
タケルが続ける。
「むしろ……言葉で世界を作ってないんだと思う」
しばらく風の音だけが流れた。
「音とか、光とか、色で。ぼくらよりずっと、ピュアな世界を見てる気がする」
アスは、目を細めて微笑んだ。
「ことばになる前の世界、ってやつだね。
名づけないで、ただ受けとる──そこにある“まま”で」
シンは立ち上がり、廊下をとことこと歩いて書斎へ入った。
そして本棚の前に立ち止まる。
「いち、に、さん……」
背表紙を、旋律をなぞるように指で数えながら、並び替えていく。
タケルはぽつりとつぶやいた。
「……もしかして、見えてるんじゃなくて、感じてるんだ。
ぼくらがまだ言葉にできないことを、音や色で──全部」
アスは小さく頷いた。
「たぶん……それが、ほんとうの世界なんだよ」
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名前をつける前の音や色は、
まだ汚れていない。
弟が見ている世界は、
たぶんぼくらが忘れてしまった世界だ。




