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099話〜前編『シン』

お寺の土曜日、午前の静かな時間。

少し涼しい風がふきぬける境内で、ぼくと弟はふたりきりになった。

たった数時間の預かり時間だけど、世界が少しちがって見える。

彼の目に映るもの、その感じ方は、まるでぼくたちが忘れてしまった世界の秘密を教えてくれるようだった。



土曜の午前中、お寺にはあたたかい日差しが差し込んでいた。


アスとその母は、親戚の法事で少し遠くへ出かけていた。 弟のシンは、タケルのお母さんに預けられた。


「お願いします」 アスの母がぺこりと頭を下げる。 「いいのよ。タケルもいるし、慣れてるでしょ?」 タケルの母は笑って答えた。


アスも一緒に頭を下げた。 「お願いします」 タケルは肩をすくめて言う。 「お母さんもいるから大丈夫……て、なにそれ、ふざけてる?」 アスは小さく笑った。 「弟はタケルのこと、認めてるからいろいろ教えてくれるかも」 「兄弟そろって、上から目線だな……」


母子が去ったあと、ふとタケルが振り返ると、シンの姿が見当たらなかった。 「シン?」 お寺の裏手の方から、ちいさな足音がした。


シンは墓地のほうから走って戻ってきた。 「どこ行ってたの!」 「どこいったの」 「……部屋に行こう」 「いこーか」 「……アメ」 「チョコ」


本堂を通り抜け、玄関から家の中へ入ると、シンはすぐに壁に手をのばした。 玄関から居間までの廊下。彼はその壁の質感を確かめるように、そっと手のひらを滑らせる。 微かな傷を見つけると、小さく笑って、撫でる。 まるで、それが愛しい記憶か何かのように。


居間の前で、ぴたりと足を止めた。 「どうしたの?」 シンは座り込み、目をギュッと閉じしばらく動かなかった。 タケルも隣に腰を下ろす。


しばらくして、タケルは気づく。 廊下の電球が明るすぎる——昨日、母が新しいLEDに交換していた。


「……もしかして、それ?」 タケルは母に頼み、前のちょっと暗い電球に戻してもらった。


するとシンは何事もなかったようにすっと立ち上がり、居間に入る。 引き戸のスライドレールに指をすべらせ、その感触を確かめる。 丁寧に、開け閉めを繰り返す。


タケルがテレビを消すと、シンはエアコンを消す。 でも、すぐに泣き出した。


「え、なんで!? 自分で消したのに?」 シンは泣きながら、何かをつぶやいた。 「でちでちあああ…あか、あか……」


よくわからなかったけれど、 タケルはとりあえずテレビをつけた。 すると、シンは泣きやみ、エアコンもつけなおす。


その繰り返しに、なんとなく気づく。


「……エアコンとテレビ、セットなんだ?」


テレビは見てるわけじゃない。 でも、ついてると落ち着くらしい。


「シン、お絵かきしよっか?」 「おえかき、しよっか」


タケルは紙と、30色の色鉛筆を持ってくる。 「じゃ〜ん」 シンは拍手して喜ぶ。


タケルは思いつきで、色鉛筆を紙の上にざらっと全部あけた。 するとシンは、急に泣き出した。 「え!? なに、なんで!?」 「アチアチイイタ……あか、あか……」


わからないまま、タケルは色鉛筆を集めて箱に戻し、シンに渡した。 するとシンは、静かに一本ずつ取り出し、 赤、青、黄色、緑、きみどり、やまぶきいろ、れんじ…… 全部、順番に並べていく。


「すご〜い。一度しか見てないのに…全部、完璧に配置覚えてるんだね…」


シンにとって色鉛筆は、描くものではなく「並べる」ものなのかもしれない。


しばらくして、タケルの母がやってきた。 「おやつ持ってきたよ。リンゴジュースとお菓子ね」


シンはニコニコしながら、アンパンマンの棒つきチョコを手にとった。 「……あか、キイロ、ちゃろ、クロ、アンパンマン」


チョコを食べる前に、まず色を全部確認してから口に入れる。


(アンパンマン?……そうか、アンパンマンの色を見てるのか) タケルは感心していた。


リンゴジュースには手をつけず、シンは一言、「ミルク」。 ミルクを飲むと、「リンゴジュース」、それが終わると「おちゃ」。 飲み物をその順に数回繰り返し飲み、走りだす。 同じ場所を、ぐるぐると。


その後、ぴたりと立ち止まり、テレビの音楽に耳を傾ける。 目を閉じて、まるで指揮者のように腕を動かした。


曲が終わると、リモコンをタケルに渡す。


「もう一回、聴くの?」 「もいっかい、きくの?」


タケルは笑いながら、もう一度再生した。


そのとき、玄関から声がした。


「ただいまー」


アスが戻ってきた。


「え、法事は?」


「お母さんが心配だから戻れって。……来たくて戻ったわけじゃない」 そう言ってアスは微笑んだ。


──つづく──



弟は、言葉より先に世界を知っている気がする。

ふれるもの、見つめるもの、感じとる空気、音、光。

そのひとつひとつに、意味が宿っているのだと彼といると気づかされる。

きっと、何かを“正しく知る”というより、“そのまま感じる”ことのほうが、本当はずっと大切なのかもしれない。

彼の世界に耳をすますように、ぼくも今日という時間をすこしだけ深く味わえた気がした。


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