第097話『心が見た絵』
光は変わらないと思っていた。
けれど、同じ風景も、同じ絵も、
心が変わればまるで違って見える。
これは、変わらないものを探す話。
そして、変わっていく自分のまなざしを知る話。
風の中の絵画たちが、
記憶と今を静かにつなげてくれるように——。
午後の光が、古いお寺の縁側に斜めに差し込んでいた。 その光のなか、アスは静かにモネの画集を開いていた。 ページをめくるたびに、淡い色の波が空間に広がっていくようだった。
「……ねぇ、タケル」 アスが声を落とす。 「変化しないものって、あると思う?」
「なにそれ。また変なこと言ってる」 そう言いながらも、タケルは少し考える。 「うーん……過去に見たものとか? もう終わったことだから、変えようがないし」
アスは目を細めて、少し微笑んだ。 「へえ。君にしては深いこと言う」 「なんかそれ、すご~く、失礼……」
アスはそっと画集のページをめくる。 「じゃあ、タケルが過去に見たモネの絵と、今のタケルが見るモネの絵って、同じ?」
『え?当たり前じゃん!モネが描いた絵なんだから同じに決まってる…』と言ったもののタケルは少し考える
アスは絵を見つめたまま言う。 「すべては千変万化する、石でさえも──って、モネは言ったんだって」
その時、静かな足音が近づいてきた。 彼女が、縁側の先から歩いてきたのだ。 水色のワンピースが午後の光にやわらかく溶けていた。 耳元では、蛋白石の耳飾りがかすかに揺れている。 その姿はまるで、モネの絵から抜け出してきたようだった。
彼女はゆっくり腰を下ろし、ふたりの画集をのぞいた。
「モネ……私も好き」 そう言って微笑んだ。
「ねぇ、アスくん。『私を泣かせてください』って曲、知ってる?」
アスは頷く。「ヘンデルの曲だよね」
「私、その曲を聴くと……とても不思議な記憶が浮かぶの」
彼女の目が、遠くの何かを見るように揺れる。
「自分なのか、誰かの記憶なのか分からないけど── 晴れた日、バラが咲き誇る庭。日傘を差した女性の腕に抱かれて、私はゆらゆらと揺れてる。 優しく包まれて、ふわっと浮くような感覚。香りはあたたかくて…… それが、まるで赤ちゃんの記憶のようなの」
タケルが目を丸くした。「お姉さん赤ちゃんの記憶を覚えてるの?」
彼女は小さく笑って、コクリと頷いた。
アスは、そっと言った。 「……もしかしたら、その記憶は、お姉さんのじゃないかもしれないよ」
彼女は静かに目を細める。
「うん。そうかも。でも、心が選んで浮かべたのなら、それはもう私の記憶なんじゃないかっなって」
アスはページを閉じて、画集を膝に置いた。 「記憶ってさ、変わらないものに見えて、見るたびに違ってる。心の色が変わると、同じ景色も違って見える」
タケルは空を見上げる。 雲の影が、庭を静かに渡っていった。
「……じゃあ、思い出も、変わるんだね」
彼女は蛋白石の耳飾りに手を触れた。 「うん。だからこそ、時々あの曲が聴きたくなる。 胸を締めつけられるけど、不思議と落ち着くの。……あたたかくて、静かな、揺れる光みたい」
午後の空気に、風が通り抜けた。 ページが一枚、やさしくめくれた。 モネの睡蓮が静かに、光の中に咲いていた。
「すべては千変万化する。石でさえも」
——それはモネの言葉。
同じ絵を見て、違う色を感じるとき、
私たちはきっと、心という“光”で
世界をもう一度、描き直しているのかもしれません。
記憶も、風景も、人の表情も。
変わることで、深くなっていく。
だから今日のあなたの目に映るものが、
どうか、あたたかくありますように。




