第096話『リヒトの光』
小さい頃、いつもそばにいてくれた誰かのことを、
ちゃんと覚えているだろうか。
言葉より先に、あたたかさで心に灯った存在。
名前の意味も知らなかったけれど、
たしかに、あのひとは「光」だった。
このお話は、そんな光についての思い出と、
それが過去だけじゃなく、
今の自分を照らしているかもしれないって気づく瞬間のこと。
夕方、アスとぼくは、学校の帰り道にある防波堤の階段にすわっていた。 少し冷たい風が吹いていて、空はオレンジから藍色にかわりかけていた。
タケル「……ねぇ、アス。犬って、どこまで覚えてるのかな」 アス「犬?」 タケル「うん、昔、飼ってたんだ。名前はリヒト」
波の音がゆるやかに耳に届く。
タケル「2歳のとき、近くの公園で迷子になったことがあったんだって。でね、リヒトがいちばんにぼくを見つけてくれたんだって。泣いてるぼくの前に、ふつうに歩いてきて、ぺたんってすわって」
アスは黙って聞いていた。
タケル「近所の子にからかわれてた時も、リヒトがいつの間にかいてくれてさ。何も言わないけど、横にすわってくれてるだけで、なんか平気になった。そういうの、何回もあったんだ」
アス「……ふふ。それって、ディオゲネスみたいだね」
タケル「ふふ?ディオ……なに?」
アス「ディオゲネス。昔のギリシャの哲学者だよ。自分のこと“犬”って呼んでて、樽の中に住んでた。王様に『何か望むことは?』って聞かれて、『そこどいて。太陽が見えない』って言った人」
タケル「うわ……変な人だけど、なんかすごいな」
アス「自由って、そういうことなのかもね。だれかを慰めるためじゃなく、ただそばにいる。その存在自体が“光”になる」
タケル「……そうか。リヒトって、そうだったかも」
アスが、ゆっくりとぼくを見た。
アス「リヒトって、ドイツ語で“光”って意味なんだよ」 タケル「え?」
アス「ね、きっと偶然じゃないよ。リヒトは、タケルの光だったんだ」
風が少し冷たくなった。 でも胸の奥は、あたたかかった。
ぼくのそばにいた光。 たしかに、そこにいた。
──
光って、何かを照らすものだと思ってた。 でもほんとうの光は、そばに“いる”ことで誰かを照らすのかもしれない。
名前の意味なんて知らなかった。でも、その存在が何を意味していたか—— 時間がたってから、ぼくらはようやく気づくのだと思う。
あの日そばにいたリヒトは、たしかにぼくの“光”だった。




