第094話『クロイハナビ』
夜空に咲く光は、ほんの一瞬で消えていくけれど、
そのあとに残る余韻は、心の深いところに灯り続ける。
黒いワンピースの彼女、はじめて花火を見た弟、
そして、何も言えなかったタケル。
この夜、色の意味が少しだけ変わった気がした。
それは、誰かの中に咲いた——静かな、クロイハナビ。
夕暮れの空に、誰かがつけたような雲の足跡が浮かんでいる。 空き地の草むらを通りぬける風が、どこか火薬の匂いを運んできた。
タケルたちは、今日、小さな花火をすることになっていた。 アスが火をつけた線香花火が、地面にちかい空気のなかでこぼれるように光っている。
「ねぇタケル」
花火の火を見つめたまま、アスが言った。
「花火って、なんで黒い光はないんだろう?」
「え?黒は夜と同じ色だからじゃない?」 タケルはしゃがみこみながら言う。 「同じ色だったら、透明とおなじで見えないよ」
「透明なのに、色があるの?」 アスの声が、夜にとける。
そのとき、花火の箱を持ってきてくれていた兄の彼女が、アスの隣にそっと腰をおろした。
風がふくと、黒いワンピースのすそがやさしく揺れた。 夜とおなじ色なのに、なんだかその服は悲しい色に見えた。
彼女の肩はほそくて、風にふるえる。 ショートよりは長いボブよりは短い髪のすき間から、ひとつだけ揺れる紫色の耳飾りがのぞいていた。
それは、彼女の静けさをより深くしているように見えた。
タケルはふと、どこかから漂ってきたギンモクセイの香りを感じた。 それは強くなくて、まるで花のほうが遠慮しているような、 泣くかわりに香っているような、そんな香りだった。
「アスくん……色って、連鎖していくのかな?」
彼女が小さくつぶやいた。
「連鎖?」 アスが聞き返す。
「うん。黒から黒へ。……親から子のように。 じゃあ、いちばん最初の黒は、どこから来たんだろう? その連鎖を、断ち切ることってできるのかな…… 色を変えることって、そんなにむずかしいのかな」
タケルは、何も言えなかった。 泣いていないのに、彼女が泣いているように見えたから。
「色ってさ」 アスがそっと言った。 「黒も、一色じゃないと思うんだ。優しい黒、寂しい黒、光る黒、見えない黒……」
彼の言葉は、夜にぽつりと灯る、小さな明かりみたいだった。
そのとき、小さな歓声があがった。
タケルの弟——シンが、母親のうしろにかくれながらも、線香花火をじっと見つめていた。
はじめて見る花火にびっくりして、さっきまで目をぎゅっとつぶっていたシン。 でも今は、小さな火を見つめながら、ぽつりと言った。
「……クロハナ」
「線香花火だよ」と母がやさしく言う。
「……クロハナ」
それは、黒い夜に咲いた、 誰にもまねできない、たったひとつの花火の名前だった。
──
空に咲いた色とりどりの花火。 そのどれよりも、弟が見ていたその光のほうが、 ぼくにはずっと、忘れられない。
色には、名前のつかない気持ちがある。
黒もまた、ただの「暗さ」ではなく、
哀しみ、やさしさ、ひそかな祈りの色かもしれない。
花火の夜に交わされた言葉、
何も言わずにそっと灯った心の色は、
きっとどこかで、また誰かの光になる。
——そんなふうに、色は、つながっていく。




