第23話「ただしさのゆくえ」
「科学と仏教、ちがう“ただしさ”」
理科の授業では「証拠」がだいじと習い、お寺では「信じること」や「手放すこと」を学ぶ。どちらが正しいのか?――そんな問いは、子どものころ誰もが一度は抱くものかもしれません。この話では、タケルたちが“正しさ”をめぐって話すなかで、二つの世界の違いと、共通点のようなものを見つけていきます。
「この前の理科の授業、ちょっと変だったよね」
アスが言った。タケルの手元には、今日の授業で使ったプリントと、いつもの“うちゅうかんさつノート”。
「うん。先生、『生きものの進化は偶然の積み重ね』って言ってたけど、じゃあ、ぼくらがここにいるのも、たまたま?」
「そうそう。おまけに『宇宙はビッグバンでできた』とかさ。そもそも、なんで宇宙ができたかなんて、本当にわかるの?」
お寺の本堂の横の部屋には、薄暗い夏の終わりの光が入っていた。風鈴が鳴り、お経がかすかに響いている。
「…なんか、先生の話と、うちのお寺で言ってること、ぜんぜんちがうんだよね」タケルがぽつりとつぶやいた。
ちょうどそのとき、法事を終えた兄が静かに襖を開けて入ってきた。法衣を脱ぎながら、にこりと笑う。
「仏教と科学、どっちが正しいのかってことか?」
「うん。たとえば、科学は“証拠”が大事で、仏教は“信じること”が大事みたいで……全然ちがう」
兄は畳の上に法衣を丁寧にたたみながら、ふと遠くを見るような目をした。
「タケル。“ただしい”って、どういうことだと思う?」
「え?…うーん、みんながそうだって思ってること?」
アスが口をはさむ。「でも、昔は“地球は平ら”って信じられてた。今じゃウソだってことになってる」
兄はゆっくりうなずく。「そう。“正しさ”って、時代や場所で変わる。科学も仏教も、それぞれの『正しさ』を探す方法なんだよ」
「じゃあ、どっちがホントなの?」
「たぶんね……“正しさ”っていうのは、“苦しまない道”を探す旅のことなんだと思うよ」
兄はそう言って、にこやかにタケルの頭をくしゃりと撫でた。
「仏教では“苦”をどうやって手放すかを学ぶ。科学は“苦しみの原因”を世界の外に探す。でも、どっちも、誰かが楽になるために生まれたんだ」
アスがしずかに言った。「じゃあ、ぼくらが話してるこれも、どこかの“正しさ”を作ってるのかな?」
兄は笑って答えた。「そのノートに書いてることは、きっとタケルの“正しさのたね”になるよ」
タケルはそっと、ノートを開いた。
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今日のうちゅうかんさつノート:
ただしいって、きっと一つじゃない。
科学も、仏教も、どちらも苦しみをこえていくためにある。
それぞれの“正しさ”は、たぶん、ぼくらの手のひらの中に育っていく。
「正しさは、苦しみを越える道」
正しさとは「なにがほんとうか」ではなく、「どうしたら、やさしくなれるか」なのかもしれません。科学が明らかにすること、仏教が静かに見つめること、それぞれが「人を楽にする方法」を模索しています。この回では、兄の法衣のまなざしを通して、“証明”と“沈黙”のあいだにある「優しいただしさ」に、そっと触れてみました。




