第22話「声じゃないのに、きこえた」
人間の内なる「声」について、考えたことがありますか?
誰にも言われていないのに「だいじょうぶ」と感じること。
それは耳で聞くものではなく、
心の奥で静かにひびく、ことばにならない“共鳴”なのかもしれません。
仏教では「心の声」や「本来の自分」を、
言葉ではなく“観じる”ことを重んじます。
今回は、そんな「ことば以前のなにか」に、タケルとアスが出会います。
ぼくはときどき、不思議な感覚に包まれる。
なにかが、心の奥からやさしく語りかけてくるような気がするんだ。
でも、それは声じゃない。言葉じゃない。
だけど、たしかに「きこえる」。
「ねえアス、たまにさ、だれも話してないのに、“大丈夫だよ”って感じることない?」
そうぼくが言うと、アスは指をあごにあてた。
「……それ、わかるかも。声じゃないけど、胸の奥でひらく感じ」
「うん、あれってなんだろうね」
ふたりで歩く帰り道、空には夕焼けが残っていた。
夏の終わりの風は、どこか時間の境目みたいな匂いがする。
ふと、ぼくは昔の記憶を思い出した。
初めて雪に触れたとき、あまりの冷たさに泣いてしまったこと。
誰かに何かを言われたわけじゃないのに、
胸のなかにふわっと「だいじょうぶ」がひろがった。
あれは、いったいなんだったんだろう。
言葉もない、声もない。
けれど、確かにぼくをなぐさめる“なにか”。
「たとえばさ」と、アスが言った。
「宇宙のはじまりって“音”じゃなかった? ビッグバンの振動。
もしかしてさ、すべての存在には、最初から“ひびき”みたいなものが宿ってるんじゃないかな」
「それって、“自分”の中にもってる、いちばん最初の声、みたいな?」
「そう。外からきたものじゃなくて、ずっと内側にあった何か」
言葉ではとらえられないけれど、
心のどこか深いところに響く“ことばにならないことば”。
それは、誰かに言われるものじゃなくて、
きっと、人が生まれたときから静かに宿してるものかもしれない。
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うちゅうかんさつノート(タケル)
> きこえないけど、たしかに“きこえた”。
声じゃないけど、たしかにぼくを包んだ。
生まれる前からあったみたいな、
でも、ぼくの中にだけあるみたいな。
それは、「だいじょうぶ」とだけ、
言ってくれた気がした。
言葉の前にある「なにか」。
それは五蘊でいうところの「識」──感覚の向こう側にある、世界と自分の境界のようなものかもしれません。
この世のすべてを観測しようとするとき、
ほんとうに大切なものは、観測されるのではなく、
ただ「そこにある」と感じられるものなのかもしれません。
そしてそれは、だれの中にも、はじめから宿っているのかもしれないのです。




