第17話「ゆめのなかの おと」
ある晩、アスの家に泊まったタケル。夜、なかなか寝つけず、アスの弟の様子に気づきます。言葉にならない何か、触れられない感覚。そこにただ「在る」ものと、ふたりが静かに向き合うお話です。弟はあまり多くを語りません。でも、語らないものの中に、何かが宿る気がしませんか?
アスの家に泊まるのは、これがはじめてだった。
夜ごはんのあと、トランプをして、風呂に入って、布団に入ったのは九時すぎ。アスの弟も、静かに横になっていた。
「眠い?」とアスが弟に聞く。
「ねむい?」と小さく、弟が同じ言葉を返す。
「まってて」
「まってて」
ふたりのやりとりは、それだけ。でも、ちゃんと通じ合っている感じがした。
家の明かりがすべて消えて、しばらくたったころ。タケルは、なんとなく目を覚ました。何かの音がした気がした。
すう……すう……。
何かをすくうような、やさしい音。あたりを見回すと、弟が起きていた。小さな手のひらで、静かに水をすくっていた。隣の部屋の洗面器に水を張っていたらしい。そこに、すうっと手を入れて、ただ見ている。
タケルは声をかけなかった。声をかけちゃいけないような気がした。弟の目は水面じゃなくて、その下の、もっと深いところを見ているみたいだった。
「……アス。弟、起きてる」
小声でタケルが言うと、アスは目を開けた。
「ああ、夜はたまに、こうしてる」
「どうして?」
アスはしばらく黙って、それから言った。
「たぶん……“おと”を見てるんだと思う」
「音?」
「そう。夢のなかにしかない音が、この水の中にあるのかもしれない」
弟の手の動きは、とてもゆっくりだった。まるで何かに触れないように、でも、離れすぎないように。水をすくっては、指をぬらして、また見つめる。
「ぼく、あのとき……支援施設で弟に会ったときのこと、思い出したよ」とタケル。
「うん?」
「あのときも、弟、水を見てた。なにか……言葉になる前の世界にいるみたいで、少しこわかった。でも、今はちょっとだけ、わかる気がする」
アスはうなずいた。
「ぼくも、あの子を見てるとね、言葉にする前の自分を思い出すことがある」
タケルは、そっと目を閉じた。さっきの水の音が、まだ耳の奥に残っていた。
そして、夢のなかで、自分も水の中にいた。音が、言葉になるまえの音が、遠くから、すう……と、聞こえてきた。
言葉にするまえの世界。理解や説明ができない感覚。私たちはいつのまにか「意味のあるもの」しか見なくなってしまいます。でも、意味をこえたところにも、確かに何かがある——そんなことを、アスの弟が教えてくれたのかもしれません。




