第16話「だれも見てないぼく」
今回のテーマは、「観測と存在」。
科学的にも仏教的にも深い話です。「見られる」ことが存在の条件だとすれば、自分とは何か、見ているとはどういうことか……日常の中のささやかな感覚から、不思議な世界が広がっていきます。
今回は兄も交えて、仏教的な視点も静かに取り入れました。
お寺の本堂の縁側。夏の終わりの夕方。
セミの声がしずかに遠のき、日が少しずつ傾いていく。
タケルは、縁側に座ってじっと空を見ていた。
アスは庭の石の上に立ち、何かをぼんやり考えている様子だった。
「ねえ、アス。もし、ぼくのこと、だれも見てなかったら……
それでも、ぼくは“いる”のかな」
ぽつりとタケルが言うと、アスは足元の石を見ながら答えた。
「見られてないとき、自分の顔って見えないよね。
でも、ちゃんとある。……はずなんだけど」
「でも、ぼく、見られてるときのほうが“ぼく”って感じがするんだよ。
学校で発表するときとか、誰かに声をかけられたときとか」
アスは手をひろげて言った。
「“観測”っていうんだ、それ。
量子っていう小さな粒は、見られたとたんに形が決まるって話、聞いたことある?」
「うん。前に聞いた。でも……人間も?」
「ぼくたちも、“見られてる”ことで、世界とつながってるんじゃないかな。
見られて、知られて、名前を呼ばれて。
そうやって、“ある”ってことが生まれてるのかも」
そのとき、後ろから兄の声がした。
「仏教でも、そういう考え方、あるよ」
ふたりがふりかえると、本堂の柱に背を預けた兄が立っていた。
「“存在”っていうのは、誰かと関係することで生まれる。
たとえば“慈悲”って、相手の苦しみを知ること。
その“知る”ことで、相手の苦しみが、世界に現れるんだよ。
だれも見なければ、それは“存在しない”のと同じ」
「え……じゃあ、だれにも見られない人は……?」
タケルが聞くと、兄は少し黙って、それからゆっくり答えた。
「“だれにも見られない人”はいないよ。
たとえこの世界にひとりぼっちでも、自分自身が見ている。
でも、禅ではその“自分の目”さえ手放して、“ただ在る”ってことを探すんだ」
アスがぽそっとつぶやいた。
「じゃあ、ぼくたち、ほんとうは……“見られるために”いるのかもね」
「あるいは、“見るために”。」
兄はやさしく微笑んだ。
その日、タケルは夜遅くまで、ひとりで庭に出て空を見ていた。
誰かが見ている空。誰にも見られていないはずの夜空。
でも、どこかで感じていた。
この“存在”は、見られている。いや、きっと、見守られている。
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うちゅうかんさつノート・その16
ぼくは、「見られていない自分」って、なんだろうって考えた。
誰にも見られないとき、自分って消えちゃうのかな?
でも、たとえ誰もいなくても、自分で自分を見てる気がする。
それに、ぼくが見てる世界の中にも、きっと“だれか”がいる。
仏さまが見てるとか、空が見てるとか、そんなふうに考えると、
なんだか少し安心した。
観測されないと存在しない。そう聞くと、少し怖く感じるかもしれません。
でも、仏教では“つながりの中に存在する”という発想があり、「誰かと関係すること」「見守ること」「慈悲を向けること」が、世界を現実にします。
誰かを見つめること。誰かを思うこと。それもまた、世界を作るひとつの力かもしれません。




