第025話『なまえのないこい』
気づかない想いほど、長く心に残る。
名前のつかない感情は、
ただそこにいて、
風や光や雨のように、
しずかに寄りそってくれる。
雨の午後だった。
本堂の前のひさしの下で、タケルは兄とアスと並んで座って話てた。
屋根にあたる雨の音だけが、
どこまでもつづいている。
「ずっと降るのかな」と、タケルがつぶやいた。
「今週はずっと雨が続くって」と言いながら
兄はふいに立ち上がり、
何かを感じとったように、窓の外を見つめた。
そして、なにも言わず傘をとって外に走っていった。
アスとタケルは、そのあとを目で追った。
お寺の門のところに、ひとりの人が立っていた。
雨にぬれた水色のワンピース姿…
濡れた髪が首すじに沿って、透けていた。
彼女だった。
兄の恋人。
雨のなかで立ちつくすその姿は、
なぜだかいつもより白く、青白く見えた。
雨にけぶる光のなか、
どこか別の世界から来た人のようだった。
兄は、彼女を傘に入れて、
何かことばを交わしながら、本堂の中へ戻っていった。
タケルは、それを見ていた。
なにも考えず、
ただ目で追いながら、胸が少しきゅっとした。
アスがふと、タケルの方を見て、
やわらかく笑った。
そして、何も言わず、空を見上げた。
しばらくして、ぽつりとつぶやいた。
「ゲーテがこんなことを言ってたよ。
“あの人が私を愛してから、
自分が自分にとってどれほど価値のあるものになったことだろう”」
タケルは黙っていた。
雨の音が、すこしだけ静かに聞こえた。
「でもそれって……」
とタケルは、しばらく考えてから口を開いた。
「愛されるってことじゃなくて、
“気づく”ってこと、なのかな。
自分がちゃんと、ここにいるってことに」
アスは何も言わず、うなずいた。
タケルはひとつ息を吸った。
金木犀の花はもうとっくに終わったのに、
ふと、あのやさしい甘い香りがした。
「……キンモクセイ?」
タケルが顔を上げると、
そこに彼女が立っていた。
ぶかぶかの長袖と長スボン…細い彼女が更に細く見えた。髪はまだ少し濡れている。
さっきよりも、もっと柔らかい光をまとっていた。
「健流くん」
と、やさしく呼ばれた。
それだけが、はっきりと胸の奥に残った。
なにかを言っていた気がする。
でも、ことばはすべて、雨の音に溶けてしまった。
名前のつかない感情だけが、
あとに残っていた。
---
気づかない恋は、
苦しさも、終わりもないかわりに、
とても静かな光のように、
心のなかに残ります。
タケルが感じたのは、
きっと恋だと知らないままの、
**“最初のやわらかい光”**だったのかもしれません。
なまえがまだない恋は優しいから恋だと気づかせない事が一番の優しさなのかもしれませんね。
---




