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第019話 『アキレスは、追いつけない?』

ずっと走っているのに、追いつけない。

そんな不思議な話が、昔からある。

でもそれは、「今」という時間が、じつは止まらずに続いていることの、

ひとつの答えなのかもしれない。


体育の時間、徒競走の練習だった。

みんながスタートラインに並んで、先生が笛を吹こうとしていたとき、

となりにいたアスが、なぜか動こうとしなかった。


「……どうしたの?」

ぼくが聞くと、アスはふいに言った。


「だって、アキレスは、亀に追いつけないんでしょ?」


「なにそれ?」


「ゼノンって人のパラドックス。

アキレスっていう足の速い英雄が、すごくゆっくりな亀と競争する話」


「ふつうに考えたら、すぐ追いつけるじゃん」


「そう。でも、アキレスがそのぶん走るあいだに、亀もちょっとだけ前に行ってる。

それをくりかえすと、どこまでいっても、追いつけないってことになる」


アスは空を見て、ゆっくりと言った。


「終わりに向かってるはずなのに、ずっと“今”が続いてるだけだったらさ……

ぼくら、ほんとはどこも進んでないのかもね」


放課後。

ぼくは、アスといっしょに、保育園に弟を迎えに行った。


園庭のすみで、アスの弟がひとりで歩いていた。

砂場のへりを、端から端まで、同じ歩幅で、くりかえし何度も。


「いち、に、さん、……」

小さな声で数えながら。


「し、……ご、あか、ろく、あお、しち、きいろ……」


数字のあいだに、色の名前がまじっていた。

まるで、世界を数字と色でぬりわけているみたいだった。


「弟、いつもこうなの?」

ぼくが聞くと、アスはすこし笑って、うなずいた。


「うん。

毎日、同じ道を、同じ歩幅で、同じ順番で。

でも本人は、“同じ”って思ってない。

ちがう色、ちがう空気、ちがう音が、ちゃんとあるんだよ。

弟にとっては、それぞれが“初めての道”なんだと思う」


ぼくは弟のくりかえす足取りを見て、ふとつぶやいた。


「じゃあ……弟も、追いつけないんだね」


「そう。

きのうの自分にも、前の一歩にも。

アキレスだけじゃない。

ぼくらみんな、ちょっとずつ“前”に近づいてるだけで、

どこにも、たどり着いてないのかもしれない」


そのとき、アスの弟がぴたりと足を止めて、ふいに空を見上げた。

風がふいた。

キンモクセイの香りが、どこからか流れてきた。


——あの人の香りだ、と思った。

——でも、それもきっと、まだ“追いついてない”記憶なんだ。


ぼくは走っている足を止めて、空を見た。

アキレスは、たぶんまだ走っている。

でも、それでもいいんじゃないかって、なんとなく思った。



---


何度も同じことをしているように見えて、

それぞれの瞬間は、少しずつ違っている。

世界は、ほんのわずかなズレを繰り返しながら、進みつづけているのかもしれません。

アスの弟のまなざしの中には、“追いつけない今”の輝きが、たしかにありました。



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