第018話『ゆびさきの記憶』
世界に触れることは、自分の中に“かたち”を写しとることかもしれません。
弟の手、石のぬくもり、そして残された香り──
今回は、そんな“触れた記憶”のお話です。
朝の境内。
ぼくは竹ぼうきで、落ち葉を掃いていた。
まだ風は冷たくなくて、空気のすきまに、ほんの少しだけキンモクセイの名残が漂っていた。
アスの弟がふと、立ち止まった。
何も言わず、境内のすみの石の上に、そっと手をのせていた。
その石は、兄の恋人がときどき腰かけていた場所だった。
目を閉じると、あの人の声が、少しだけ耳の奥に響く気がした。
「ねえ、アス。なんであそこに触るんだろう」
ぼくがそう言うと、アスは手を止めて、ちょっと考えるような顔をした。
「触るって、記憶をしまう動作なんだよ」
「は?」
ぼくが首をかしげると、アスは落ちていた銀杏の実をつまんで、においをかぎながら言った。
「たとえばさ。おばあちゃんの炊飯器、もうないのに、手ざわりだけ覚えてることってない?」
「ある……かも」
「そう。世界ってね、触ったときに、自分のなかに“コピー”されるんだよ。
皮ふは、目とはちがって、いつまでも残る記憶を持つんだって」
そう言いながら、アスは弟のほうをちらっと見た。
「弟、前にも、あの柱に毎朝触ってたでしょ。あれ、きっと“地図”なんだよ。自分の安心できる場所の。
世界の中の“ここ”っていう場所を、確かめてる」
「ふーん……」
ぼくは境内をぐるっと見渡した。
たしかに弟は、いつも決まった石、決まった木の皮、決まった鉄柵を手のひらでなぞっていた。
ひとつひとつが、自分だけの地図の“しるし”なんだと思うと、なんだかその手の動きがやさしく見えた。
「じゃあさ」
ぼくは言った。
「前に兄ちゃんの彼女が最後にさわったあの石も、彼女のことを、まだ覚えてるのかな」
アスは、少し笑ってから、首をかしげた。
「どうかな。
でも、人間の脳より石のほうが長く残るよ。千年とか。
つまり……忘れないってことかもね」
その日の夕方。
ぼくは一人で、その石の前に立った。
風が吹いた。
そのとき、ほんのかすかに、キンモクセイの香りがした。
——石が、記憶していたのか。
——それとも、ぼくのなかが、忘れていなかったのか。
わからないけど、指先があたたかかった。
なんだか、それで十分な気がした。
人はふれることで、なにかを記憶します。
皮ふは、目よりも長く、静かに“思い出”をしまっていてくれるのかもしれません。
タケルが感じたぬくもりは、ほんの一瞬の“返事”だったのでしょう。




