第015話『坂のしたの藤田さん』
夜の語らいの中には、
普段は語られないまま胸にしまわれていた出来事が、
そっと浮かび上がることがある。
この回では、タケルが体験した“本当にこわい”記憶が明かされます。
兄の穏やかな仏教的まなざしと、アスの量子論的な観測の視点が、
「忘れられること」と「気づかれること」の意味を静かに照らします。
縁側に蚊取り線香の匂いが流れている。
コップの中で氷が静かに溶けて、虫の声だけが遠くで響いている。
「アス、こわい……」
タケルがさっきまでの話(フリードリヒ2世の赤ちゃんの実験)を思い出して、ぎゅっと自分の腕を抱えた。
「こわかった?」
アスは無表情でジュースのストローを吸っている。
「兄ちゃんも、何か話してよ」
タケルが頼むと、兄は「うーん」と少し考えたあとで、
「俺は今日は聞き役でいいや。……タケルは?」と返してきた。
「ぼく?」
「こわい話。あるんじゃない?」
タケルは一瞬、口をつぐんで、目を揺らした。それからゆっくりとうなずいた。
「……ある。でも、あんまり話したくない。ほんとうに、こわかったから…誰にも話してない…」
アスと兄が、黙って続きを促す。
タケルはふーっと息を吐き静かに話しはじめた
---
「藤田さんっていうおばあさんがいたんだ。ほら、石上神社から右側に出たら細い坂があるよね?その坂の下の古い家に一人で住んでた…今は取り壊されて太陽光発電が置いてある」
「……ああ、藤田さん」
兄がうなずいた。目を伏せ、静かに真面目な表情で聞きはじめる。
「町内で孤独だった方だよね」
タケルの声が、少しだけ低くなった。
「うん。すごく意地悪な人で、子どもが挨拶しても怒るし、町の人にも嫌われてた。うちの母さんにも『家には近づいちゃダメ』って言われてたくらい」
「でも、ある夏の日──」
「坂の上から下を見たら藤田さんがいたんだ。腰をぐにゃって曲げて、お辞儀みたいな体勢で、じっと立ってた」
「変だなって思ったけど、何も言わなかった。……それから何日かして、また同じ場所に立ってた。まったく同じ格好で」
「……でね、何度か見かけてたある日。藤田さんの家の前を通ったときに、ふと思い出して、庭にこっそり入って、地窓から中をのぞいてみたんだ」
「そしたら……」
タケルは一瞬、言葉を止めた。
「窓の向こうで、藤田さん見てたんだ…。こっちを。ぼくが来るのを、知ってたみたいに…目があった。地窓だから寝ながら?見てたんだ…」
「──逃げたよ。めちゃくちゃ怖くて…」
しばらく沈黙があって、タケルは続けた。
「家の中の藤田さんの話、誰にも言えなかった…
その何日かあと。警察が藤田さんの家に来てた。母さんに聞いたら……藤田さん、亡くなってたんだって。」
「しかも、半年も前に…」
「……」
兄は、目を閉じるようにして、そっと手を合わせた。
アスが静かに息を吸った。
「ぼくが坂の上で見たとき……もう、生きてなかった。じゃあ、あれは?」
タケルの声が震える…
「家の中で見たのも……藤田さんの死体?でも半年前に亡くなってた人の見た目じゃなかった… 生きてるみたいだった。でも 死んでたの? なんだったの?」
夜の空気が、すっと冷たくなったような気がした。
兄は小さく言った。
「執着って、形に残るんだよな。生きていても、死んでいても」
アスがその言葉に反応して言う。
「タケルは、それを“観測”した。だから、そこに存在が固定されたんだよ。量子論的にはね」
「……?」
「誰にも見られない存在は、この世界では“なかったこと”になる。でも、君が見た。見られたことで、その人は“いた”になる」
タケルは自分の手を見つめながら、ぼそっとつぶやいた。
「……ぼく、見たんだね。ほんとうに、いたんだ」
兄はうなずいた。
「たぶん、あの人は……誰かに気づいてほしかったんだよ」
アスが小さくうなずく。
「忘れられた存在っていうのは、たぶん、とてもさびしいものなんだよ」
縁側の風鈴が、やさしく鳴った。
藤田さんがいた、という記憶。
誰にも気づかれなければ、存在はこの世界から消えてしまう。
だからこそ、タケルが“見た”ということは、彼女にとって救いだったのかもしれません。
存在を固定する“観測”という行為の重みと、
兄とアスのそれぞれの解釈が、タケルの中でやがて“思い出”へと変わっていく──
そんな、静かで切ない一夜の物語です。
---




