第14話「のこされたぼく」
タケルの家には、昔からたくさんの“もの”がある。古い仏具、家族写真、手紙、見たこともない人の書いた本——。でも、それってただのモノなんだろうか?もしかしたら、「誰かがそこにいた」という“証拠”かもしれない。
このお話は、“見られたこと”で残る存在と、見えない記憶がつくる“ぼく”の物語です。
土曜日の午後、タケルは仏間の押し入れを整理していた。
古い布団のあいだから、ホコリまみれの箱が出てくる。
なかには、古いアルバムや、茶色くなった封筒がつまっていた。
「ん……?」
手紙の束を手に取ったとき、縁側からアスの声がした。
「なに見つけたの?」
「うちのおじいちゃんの手紙かも。たぶん昔のやつ」
タケルは、封を開け、ていねいな筆文字を読む。
若いころの祖父が、誰かに感謝の思いを伝えた手紙だった。
「ありがとう」の文字がにじんでいた。
まるで、時間そのものがしみこんでいるみたいだった。
アスはその手紙をのぞきこみながら、静かに言った。
「これ、ちゃんと“見たこと”がのこってるね」
「“見たこと”?」
「うん。おじいちゃんが世界をどう見たかってこと。
これを読むと、ぼくたちも、過去の“何か”を感じることができる。
たとえそれが今は、もう目の前にないとしても」
タケルは、13話で話したことを思い出していた。
夢の中の自分。夢の自分を見ていたような気がする、もう一人の自分。
「もしかして……」
タケルはそっと言う。
「誰かが“見てた”っていう事実があるだけで、その人は、今ここにいなくても、まだいるって言えるのかな……」
アスは、ちょっとだけ笑った。
「それって、観測ってやつだよ。
“いた”という記憶がのこっていれば、その人の“存在”も、少しだけ世界にのこる。
観測されたものは、そこに“あったこと”になるんだ」
タケルはそっと手紙を戻しながら言った。
「じゃあ、ぼくがここでこうやってこの手紙を読むのも、
もしかしたら、おじいちゃんの一部を“つくりなおしてる”のかな……?」
アスはうなずく。
「そうかもね。見ることは、つくることだから」
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その夜、タケルは祖父と夕食をとった。
祖父は元気で、あいかわらずごはんにたくあんをのせて食べていた。
でも、さっきの手紙を思い出すと、なんだか少しちがって見えた。
ぼくのなかに“昔のおじいちゃん”がいる。
手紙という記録を通して、知らない時間を見た気がする。
それを感じている今の自分も、きっと誰かのなかにのこっていく。
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その日の「うちゅうかんさつノート」には、こう書かれていた。
きょう、ぼくは手紙の中の“見たこと”を見た。
おじいちゃんが生きた時間が、ほんとうに“あった”と感じられた。
誰かが見たこと。思ったこと。
それがのこっているってことは、その人の一部が世界にのこっているってことかもしれない。
ぼくもいつか、誰かに“見られた”記憶として、どこかにのこるのかな。
「観測されたものだけが存在する」——そんな考え方は、量子力学だけでなく、ぼくたちの日常にもひそんでいる気がします。
誰かが見た景色、誰かの記憶にのこる誰か。それは、もはやその人の“記憶”ではなく、新しい“存在”なのかもしれません。
タケルたちが受けとったのは、過去の人の“痕跡”であり、“再構成された存在”でもありました。
もしかすると、私たちが「誰かを思い出す」その行為が、だれかをこの世界に「よびもどす」ことなのかもしれません。




