第009話『君が呼ぶから』
名前って、ただの記号じゃない。
誰が呼ぶかで、音の意味が変わる。
そのことに気づいたとき、ぼくは――ちょっとだけ、世界が違って見えたんだ。
【1】アスの観察
「名前って、ふしぎだよね」
アスがつぶやいた。
その日、放課後の帰り道。タケルとアスは、お寺の境内にいた。
「え、なにが?」
「記号でしかないのに、呼ばれると、心が動く。呼ぶ人によって、名前の“音”が違って聞こえる」
タケルは少し考えた。
「たしかに…お母さんに“タケル!”って怒られるときと、兄ちゃんが“タケル、来い”って呼ぶとき、ぜんぜん違う気する…」
「そう。名前はね、“音”でもあり、“関係”でもあるんだ」
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【2】兄と恋人
その晩、兄の恋人が家に遊びに来ていた。
縁側の向こう、兄とその人が静かに話しているのが見えた。
やがて、その人はふわりと笑って、小さくこう言った。
「……りゅうけん 」
タケルは、思わず息をのんだ。
兄の名前が、まるで別の名前のように聞こえた。
やわらかくて、少し震えていて、
その人の声の中でだけ、兄の名前が“特別”になっていた。
「……あれ、いまの、兄ちゃんの名前?」
「うん。でも、あの人が呼ぶと、ちがう音に聞こえるでしょ?」
アスはそっとつぶやいた。
「名前って、“誰が呼ぶか”で意味が変わる。
それって、世界の構造に似てると思わない?」
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【3】名前という“扉”
「……え?」
「この世界は、たぶん、“認識”でできてる。
だから“呼ばれる”ことで、その人の存在も、その関係も確かになるんだ」
タケルは考え込んだ。
「じゃあさ、名前って、ただのラベルじゃなくて……扉、みたいなものなのかな」
「そう。扉。そして鍵。
だれかに名前を呼ばれるとき、ぼくらは“ここにいる”って証明されるんだ」
風がそよいで、庭のキンモクセイが揺れた。
どこかで誰かが、誰かの名前を呼んでいる。
その声だけで、世界は少しだけ、やさしくなる。
だれかに名前を呼ばれるとき、
ぼくらはこの世界に、“いる”ことを確かめられる。
タケルはその日、兄の名前が“兄ちゃん”じゃなく、
一人の人間として呼ばれる瞬間を聞いた。
それはちょっと切なくて、
でもどこか、あたたかい音だった。




