第006話『きおくのにおい』
ふとした香りが、ふいに記憶を引っぱり出すことがあります。
秋の庭、キンモクセイの香り――。
それは「言葉になる前の自分」と出会う合図なのかもしれません。
兄の恋人が、うちに来た。
タケルはなんとなく落ち着かなくて、玄関で靴を並べるふりをして彼女の足元をちらりと見た。
白くて細い足首。やわらかそうなワンピース。
そして、どこか懐かしい匂いがした。キンモクセイ――庭に咲いている木の、あの香り。
彼女は、まるでいつも光の中にいるような感じがした。
やわらかく微笑んでいて、声は風みたいに軽かった。
その日の放課後、アスが言った。
「ねえ、君の兄ちゃんの恋人…あの人──いつも光が当たってるかんじの人だよね」
「……うん、ちょっと、半分だけ透けてるみたいな」
タケルはそう言って、自分でも少し照れた。
「それに、あの香り……キンモクセイの」
「香りって、ぼくは“時間”のかたちだと思ってるんだ」
「時間?」
「うん。たとえばキンモクセイの匂いがしたら、
前の年の秋を一瞬で思い出すでしょ?
考える前に、感情がよみがえる。
匂いは、記憶より先に感情を呼ぶんだよ」
「それって、凄く不思議たね」
「でも面白い。人は“言葉になる前の記憶”を、
香りで覚えてるかもしれない」
「じゃあ、兄ちゃんがあの人を好きになったのも、
……香りのせいかも?」
「ありえるよ。
遺伝子的な相性か、
生まれる前の世界で嗅いでた記憶か……」
その次の日。
庭のキンモクセイの前に、アスの弟が立っていた。
風がふくたびに、ふわりと香りが舞い、
弟はそのたびに、金いろの光を目で追っていた。
まるで香りが空中に描くひかりの軌跡を、
ゆっくりなぞるように。
アスが言った。
「彼には、香りが見えてるんだと思う」
「見える?」
「音や数字に色が見える人がいるように、
匂いに形が見える人もいる。共感覚っていうんだ」
「弟もそうなの?」
「そうかもしれない。あの子は、“ことばになる前の世界”を見てる。
ぼくも、少しでいいから見てみたい。
彼らの宇宙を」
タケルは、キンモクセイの木を見上げた。
風がまた吹いて、金いろの香りがふたりの間をすり抜けた。
「……記憶って、においでできてるのかもね」
光のような人が放つ香り。
弟が見ていたのは、私たちが忘れてしまった“感情のかたち”かもしれません。
アスが憧れるのは、そんな言葉になる前の、色と匂いの宇宙です。




