第005話『海の向こうにいる人へ』
子どものころ、水平線の向こうが気になっていた。
あのまっすぐな水の終わりに、何があるのか。
それはきっと、死について考えはじめた最初の記憶だった。
海にやってきたある日。
タケルとアスは、防波堤の上に腰かけていた。潮の香り。照り返す水面。
風が吹き、カモメの鳴き声が遠くで揺れる。弟は少し離れた砂浜で、波の近くにしゃがんでいた。
タケルが言った。
「……水平線って、どこまで続いてるんだろうね」
「地球が丸いから、あそこは“終わり”じゃなくて、“始まり”なんだよ」
アスが応えた。
「でもさ、小さい頃は、あの向こうにほんとうに“世界の終わり”があると思ってた」
タケルが笑いながら言った。
「ぼくも。飛び越えたら、宇宙に行ける気がしてたよ」
二人はしばらく黙って、夕日に染まる海を見つめていた。
風が少し冷たくなりはじめていた。
アスがぽつりと言った。
「星の王子さま、知ってる?」
「うん。小学校の図書室で借りたことある。
……最後、王子さまは星に帰るって言って、消えちゃうんだよね」
「そう。ヘビにかまれて、体は地面に残って、心だけが星に帰る。
……ぼく、あれ、死のことだと思ってる」
タケルはうなずいた。
「でも、なんで王子さまはあんなに、平気そうだったんだろう?」
「きっと、帰る場所があるって思ってたから。
だから、こわくなかったんだよ。死ぬことが、消えることじゃなくて、
“帰ること”だったら、ちょっとだけ、やさしいよね」
砂浜で遊んでいた弟が、ふと空を指さしていた。
西の空に、一番星がきらりと光っていた。
「……じゃあさ、死んだ人って、星になってるのかな?」
「かもね。星になって、ずっと水平線の向こうから、
こっちを見てるのかもしれない。
──ほんとうの“さよなら”じゃなくて、“またね”って言いながら。」
タケルの目が、すこし潤んでいた。
「ぼく、また星の王子さま、読みたくなってきた」
アスはうなずいた。
「君が大人になってから読むと、きっと、今とはぜんぜん違って見えるよ」
「そういう本なんだ」
海はもう、すっかり金色に染まっていた。
空に吸い込まれるように、太陽が沈んでいく。
星が、少しずつ、増えていった。
王子さまは言った。
「ぼくの星は、小さくて、とても遠い」
でも彼は、星に帰ることを、恐れなかった。
タケルとアスもまた、水平線の先にある“帰る場所”を、
静かに見つめていた。




