第13話 理想の家族
「あのさ、結人…………私ね、やっぱり一回帰ろうと思う。」
つぼみはリビングから、キッチンに立つ結人に呼びかけた。
数週間前から言おうと思って、ずっと言い出せないでいた。
言ったらどんな反応が返ってくるのか、怖くてしょうがなかったからだ。
今の生活への不安、諦めた医者の夢のこと、通っていた学校の話――
今までそういうことについてつぼみが少しでも口にするだけで、結人はものすごく傷ついた様子で怒っていたからだ。
……そういう日のセックスは、いつもよりも少し苦しかった。
「帰る——帰る、って、どこに?」
野菜を切っていた結人が手を止め、顔を上げる。
「……私の、家。」
「……何言ってんだよ。俺たちの家はここだろ?」
「そうだけど、そうじゃなくて……お母さんに、会いたいの。それに、友達にももうずっと会ってないし——」
突然、結人の右手から、まな板に包丁が落ちた。
がらん、という音につぼみは肩を震わせる。
――あ、なんか。ヤバい。
つぼみは、彼の不自然に固まった顔を見て思った。
「何言ってんだよ……母親に、会いたい、って……まさか、まだそいつに依存してんのか……?」
「え……。」
「お前、まだそいつに愛されてると思ってんのか?」
思いもよらぬ返答に、つぼみは困惑する。
「……何、その言い方――」
「そんな訳ないだろっ!」
結人はつぼみの言葉を遮って叫ぶ。
「つぼみの居場所は、ここ、俺の隣。そうでしょ?前の家なんかじゃないよ……つぼみは捨てられたんだよっ、そうだろ!?俺たちは二人とも捨てられたんだ!だから二人で新しく家族にならないと――」
「——違う、捨てられてなんかない!私のお母さんは、結人のお母さんとは違う……私がただ、勝手に出て行っただけで……。」
「いいや捨てられたんだよ!そのクズ女に!」
あまりの言い様につぼみは絶句した。
「そいつは、夫に一生愛しますって誓って、子供まで作ったくせに、死んだらきれいさっぱり忘れて違う男に尻尾振り始めたんだろ!?お前もそれがっ、自分たち家族への裏切りだってわかってんだろ!だから出てったんじゃねえか!クズ共と潔く決別したんじゃねえか!」
結人は異常な剣幕で、つぼみの母の裏切りを責め立てる。
「………お母さんはっ、そんなんじゃない。……結人に、お母さんの何がわかるの……!?」
「わかるよっ、俺が誰よりもわかってる――」
結人は台所から出てきて、つかつかとつぼみに歩み寄る。
つぼみは後ずさる。
「ねぇつぼみ……一回落ちつこ?つぼみが罪悪感抱く必要なんてないよ。全部あいつらが悪いんだから……俺が保証してやる。」
「何っ――」
結人は無理やりな笑みを浮かべながら、つぼみの両肩を掴む。
「分かるよ、分かる……つい庇いたくなっちゃうよね?自分が悪い子だからこうなっちゃうんだって、だから自分が謝れば全部どうにかなるって、そう思ってるんだよね……?でもそれは、そう思い込まされてるだけなんだよ!?依存させられて、洗脳されてるから!あいつらの偽物の愛にっ!」
結人はまくしたてながらつぼみを揺さぶる。
「――何っ、やめてよっ!」
つぼみは結人の腕を引きはがそうとするが、力が足りない。
「あーあ、やっぱりそうだったんだ……そっか、こんなにひどかったのかぁ。ショックだわぁ……はぁ、可哀想。」
突然結人は、天を仰いで意味不明なことを言う。
「………ああでも大丈夫、安心して。――俺が今、治してやる。」
そう言って結人はつぼみの肩をつかむ。
「いい?つぼみ。お前は母親のことなんか考えなくていいから……だから、俺だけを見て。そうすれば大丈夫。俺たちは愛し合ってるでしょ、ね?二人で支え合って生きていける。偽物の愛なんか必要ない。」
そう言いながらつぼみを抱き寄せる。
まったく、乱暴な動作ではなかった――だが、それが逆に不気味だった。
あたかも間違って絞め殺さないように加減しながら、しかし絶対に逃がさないように、蛇がとぐろを巻くように、緩やかに締め付けていくような――
「大丈夫、何も考えなくていいから……もしまた不安になったら言ってよ。いくらでも甘えていいよ?俺が朝から晩までずっとそばにいて、どれだけお前のことが好きか言い続けてあげるからさ。俺の腕の中でずっと泣いててもいいよ。そうすれば安心するでしょ?」
「…………別に、そこまで、しなくていい……。」
つぼみは辛うじて弱い否定を示す。
「いや、つぼみにはそれくらい必要だよ。そうしないと駄目だ……だって、まだつぼみの中には不純物が残ってるだろ?それが俺たちの愛を邪魔してるんだ。だからそれが全部なくなるまで続けないと。お前が今までの親の自己満足のために操られてきた人生を全部忘れるまでずっと。俺が教えてやるから…………本物の愛を。」
「……何、言ってるの……どうしちゃったの、結人――」
「――どうもしてねえよ。どうかしてるのはお前だろつぼみぃっ!」
再び結人が怒鳴り声に戻り、つぼみは肩をびくっと震わせる。
「自分では気づいてないだろうけどな、お前はまだ母親の呪いに取りつかれてるんだよ……ほんっと、反吐が出るぜ、クズ過ぎだろ!こんなに綺麗な女の子をっ、それだけで台無しにしちまうんだからっ!」
「…………っ!」
つぼみはもう、声も出せなかった。
……自分が知っている園安結人は、こんな人間ではなかったはずだ。
「……あ、違う、そういう意味じゃない。誤解しないで!つぼみが汚いって意味じゃなくて……大丈夫、まだ間に合うから。俺がちゃんと治してやる。つぼみの中の汚いものは全部無くして、全部俺でいっぱいにしてやるから。精神的にも物理的にさ、ハハッ……。」
つぼみは生命の危機すら感じ、半ば本能的に身をよじり始めた。
だが、結人の抱擁は人間のものとは思えないほど力が強い。
つぼみが息が詰まってうめき声をあげるのも気に留めず、結人は一方的に愛をささやき続ける。
「だからその代わりさ、俺の心の中はつぼみが埋めてよっ、ね……?足りないところを補い合うんだよ、わかるだろ?二人で一つの夫婦って言うかぁっ、それが本物の家族って言うか、そう、大丈夫きっとうまくいくから、うん、ね?ほら……俺がつぼみを支えるから、俺が一生添い遂げるから大丈夫、全身全霊で尽くすから、ね?」
つぼみは唯一自由に動かせる足を使って、壁際を這うように脇に逃れようとする。
結人はそれに引っ張られるように、あるいは体を押し付けるように同じ方向に足を出す。
二人はもつれあいそうになる足で歪なタップダンスを踊りながら、ずるずると部屋の隅に移動していく。
「やめてっ……離してっ……!」
「身も心も全部捧げ合ってひとつになってさ、いつまでも一緒にっ、絶対に裏切らない約束する、俺はあいつらとは違うからっ、必要なことはなんだってする勝手に逃げないし絶望しないし世のため人のためとか勝手な夢とかそもそも見ないしうまくいかないのを人のせいにしないし何よりも家族を大事にして他の何よりも時間をかけてずっと離れないで幸せに、そう絶対に幸せにする!約束するだからっ――――」
結人は部屋の隅に追い込んだつぼみを、まっすぐに、ナイフのような眼で見据える。
ついでに言葉でも深く、深く、抉り取るように。
宣告する――
「――俺と、結婚してください。」
射貫くように、心臓を射止めるように。
恐怖と絶望で少女の心臓を、止める。
恋に落とすかのように――堕とすかのように。
ありったけの、愛と誠意を籠めて。
呪詛のような、プロポーズを。
結人は自分の言葉に感動して、涙を流していた。
一方のつぼみの流す涙は、純粋な恐怖によるものだった。
「…………だ。」
結人が彼女の返事を待つ、数秒の間。
その間に、つぼみは理性を取り戻して、しまった――それが、いけなかった。
「――いやだ。……やだ、怖い、やだぁっ!!!」
そう言いながら結人を突き飛ばす。
不意打ちを食らった結人はよろめく。
「っ!?………つ、つぼみ――」
「やだ、来ないで!」
つぼみは平手打ちで彼を遠ざけた。
結人の歩みが、止まる。
つぼみは我に返って後悔する――だが、もう遅い。
結人は例の、あの傷ついた被害者の顔で自分をにらみつけていた。
「…………お前、今……家族に、暴力振るったのか?」
結人は愕然とした調子で言う。
「嘘だろ、なあ…………お前、そんなことする奴じゃ、ないだろ……。」
「…………あ、ごめんなさ――」
――次の瞬間、結人はつぼみの体を思い切り壁に叩きつけた。
「ふざっけんなよっ……!どうしたら愛する家族に、そんなひでぇことできんだよあ゛ぁ゛っ……!?」
そう言いながら、彼女の胸倉をつかんで締め上げる。
「んっ……あ、ぐっ…………。」
「おい、なんとか言えよぉ……痛かったんだよ、ねぇ……?体じゃなくて、心がさぁ……何なんだよ急にぃ!なんで殴んだよ!?俺と一緒に生きるって誓ってくれたじゃんか!なんで裏切るんだよ、嘘だったのかよ、おぉい!俺が今までどれだけ二人の幸せのために努力して来たと思ってんだよ!?今になって手のひら返すのかよ……!俺のこと、馬鹿にしてんのかよぉ゛ぉ゛お゛……!!!」
――息が、できない。
本当に、殺される…………!
「や、めて……やだ……やだよ、こん、なの……!」
「あぁ!?」
結人の腕がわずかに緩む。
「げほっ、げほっ…………こんなの、やだ……………こんなゆいと、やだよぉ!」
つぼみは顔を天井に向けながらあえぐ。
「なんだよ、それ…………何言ってんだよ!」
結人はつぼみの顔を思い切り腕ではたく。
彼女の細い体は宙を舞い、リビングの床にたたきつけられた。
「取り消せよ今のっ……!『やだ』ってなんだよっ、『こんな結人』ってなんだよ!俺のこと嫌いになっちゃったのぉ!?そんなの、許されるわけないだろっ。今更わがまま言ってんじゃねえよ誓ったじゃんか永遠の愛を゛お゛ぉ゛っ!??」
そう言いながら、床に倒れたつぼみの襟をつかんでもう一度立たせる。
「…………はぁ、はぁ……これで、おあいこだね……?ねえ、どれだけ俺が痛かったか、わかった……?」
つぼみは恐怖で何も答えられない。
例え何か言えたとしても、きっと今の彼には話が通じない。
「黙ってんじゃねぇよ……なあ、どうしちまったんだよつぼみぃっ!俺のこと、そんなに嫌いなのかよぉっ!?」
「…………好き、だよ。」
つぼみは涙と共に声を絞り出す。
「でも……今は、怖い……すごく、怖い。結人が、何言ってるのか全然わかんない……!傷つけちゃったのは、謝る、から……ほんとに、ごめんなさい……だから、お願い、お願いだから……いつもの結人に、戻ってよ……!」
「――何だよ、それ……怖いってなんだよ、また一方的に俺のせいにされんのかよぉ!意味わかんねえのはお前らの方だよ!好きとか愛してるとか、嘘ばっかついてんじゃねえよお゛ぉ゛ぉ゛!!!」
「……嘘、じゃないよ…………。」
つぼみはしゃくりあげながら言う。
どうして、わかってくれないのだろう。
「私は、ただ、結人のことも……お母さんのことも、友達も、みんな大事、で……。」
「はあっ!?俺は一番じゃないのかよ……?」
「違う、そういうことじゃ、ない、って……ほんとに、好き、なの……。」
「一番好き、か?」
「一番好き、だよ……。」
「じゃあさあ……ちゃんと証明してくれよ……。」
「…………え?」
つぼみは結人の顔を恐る恐る見上げる。
野生の殺し合いで追い詰められた、獣のような顔を。
殺されるか――さもなければ、食って生き延びるか。
「口だけならいくらでも言えるからさ……愛は行動で示さないと、ね?」
「……それって、どういう——」
その疑問に対しては、言葉の代わりに深紅の蔓が応えた――彼の想いと欲望の具現、そのものが。
「っ…………!!?」
蔦はつぼみの両腕を背中側で縛り上げ、両足も一束に押さえつける。
当然、バランスを崩したつぼみは無様に地面に倒れこむ。
「何っ!?何、これ……!!?」
ぎりぎりと締めあげられた四肢の骨が、悲鳴を上げていた。
「動かないでよ……つぼみの綺麗な体、傷物なんかにしたくないからさ……。」
結人は暗い笑みを浮かべながらつぼみの上に跨る。
「何っ!?やめて……やめ、てよ……!」
「大丈夫、いつもと一緒だって……まさか、逃げたいなんて思ってないよね?」
結人はつぼみの顔の上でささやく。
甘い匂いの呼気が、つぼみの鼻腔に入り込んでくる。その感触だけでつぼみは、全身を侵食されるような怖気を感じた。
つぼみが身をよじると、蔦はますます強く彼女を締め付ける。
「大丈夫、俺が治してあげるから!ちゃんと愛し合えるようになるから。ほら、大丈夫だ、よっ!」
結人は彼女のブラウスを両手で引き裂いた――
「やだ!お願い、やめてっ!やだっ、やだあっ!」
つぼみは叫び続ける。
だが結人はただ壊れたように笑いながら、「うんうん、そうだね。」「可愛いよ、つぼみ。」「ありがとう、嬉しい。」等と噛み合わない応答を繰り返すだけだった――
――なんで、誰も助けに来てくれないの……?
…………誰も来るはずがない。
完全防音。
住人に関する書類は全て偽装済み。
廊下やロビーの監視カメラにはダミー映像が用意されている。
他の部屋の住人に危害を加えない限り、個人の居住空間内では何をしても許される。
……このマンションはそもそも、そういう場所だ。
少女は気づかなかった。
自分がもうとっくに、見えにくい一線を越えてしまったことを。
それは自分から、平和で安全な日常から逃げ出しした時か。
それとも、彼から差し出された傘に入った時か。
それとも、彼と「聖餐」とやらに参加した時か――
いずれにせよもう、後の祭りだ。
彼女はそうしたことを何一つ理解することなく、ただただ結人の血の色に染められていった――
次回、「悪魔狩り」。
愛本叶多はかつての先輩達と、最悪の再会を果たす。




