第12話 And so the prince and his princess lived happily ever after.
園安結人は今、これまでの人生の中で一度もなかったほどの幸せを噛みしめていた。
「昇天塔」のメンバーは皆、教団の捜査を避けて雨宮から関東各地に散り、結人も駿河県に移住した。
49階建てのタワーマンションの上層で新婚生活を始めてから、およそひと月。
ガラス張りの窓の向こうでは、彼が愛する街の明かりが、星の様に無数にきらめいている。
そしてその奥に、我らが天人が舞い降りし不死山がそびえたつ。
山腹の中ほどに滞留している雲が、彼がそこで羽を休めていることを示している。
結人の兄弟はみな、あの雲に守られ、あの雲を畏れている。
しかし結人はいつか、このビルよりも、あの山よりも高い「頂点」に達することを夢見ていた。
まだ誰も上り詰めたことのない、「九階」。そこに達したものは、永遠の命という特権を与えられる。
ただの凡俗な人の枠を超え、我らが主、途ケ吉人志と同じ天使に加えられるのだ。
天使になれば、自分の眷属に不死身の力を分け与えることもできる。
結人はつぼみを自分の眷属とし、この国の皇帝と皇后として君臨することを夢見ていた。
その暁には、全ての法律を廃棄する。
人間には、もっと自由な競争が許されるべきだ。
どうせ、誰も彼もが身勝手なのだから、その方がよほど自然で、「公正」だと思う。
もちろん、未道信司のように「正義」を唱える偽善者どもは皆殺しにしてやる。
だが、そんなことは今の彼にとっては二の次だった。
彼が思い描くのはあくまで、きわめて童話的で幼い富と名誉の煌めきであり、素朴な王子と姫のハッピーエンドだった。
今までは心の中だけに秘めていた夢だったが、花嫁を手にした今、彼はその実現のために全力で働き始めた。
もはや躊躇や恐怖など微塵もない。
まして、今の彼には本当に自分自身の「力」がある。
霧も自在に操れるし、刃物や銃ですら恐れるに足らない。
彼の今の仕事は、今まで通りの下級メンバーの監督に加えて、裏切り者の始末と、裏社会で対立する権力との闘争だった。
自分の手で人を殺すことにもすっかり慣れていた。
やってしまえば、本当に簡単なことだった。十分な力で、人体の正しい部位を破壊するだけ。
まして相手は有象無象のチンピラ男たちだ。似たように粋がった服やサングラスの群れ。
その内何人かを殺して圧倒し、生き残りを拷問し恫喝し、屈服させる――ただそれを繰り返せばよいだけだ。
もう、彼女たちの亡骸を捨てる時に震えていた自分は、どこにもいない。
今ではあれらも、必要な犠牲だったのだと声を大にして言える――今の彼には、本当の運命の相手が見つかったのだから。
その過程で自分を裏切った人間が勝手に自滅したからと言って、何が惜しいものか。
彼の「勤務」時間帯は主に深夜だった。
街の影に潜り込み、騙し、盗み、争いを誘導し、暗躍する。
彼の仕事を阻む不届き者がいれば、容赦はしない。
彼らは、赤く燃える情欲の悪魔の餌食となり、精気を残らず吸い尽くされる。
彼らの悲鳴と鮮血は霧に吸い込まれ、誰にも届くことは無い。
月明かりにその妖しい深紅の煌めきが晒されるのは、事が成された後、ほんの一瞬のみだ。
そんな殺伐とした仕事を終え我が家に帰れば、そこから束の間の、しかしこの上ない安らぎと、愛をはぐくむ時間が始まる。
何事もなかったかのように迎えた朝で「妻」と交わすやり取りは、あたかもごく普通の幸せな生活を送る新婚の青年のようだった。
そんな生活を続ける内に、このわずか半年で結人は6階に昇進していた。
何もかもが順調、何もかもが、理想的だった。
つぼみと、二人だけの楽園を生きる。
その楽園は、決して汚れた黒い下界と交わることは無い。
煩わしい邪魔者どもは、全て夜の闇に葬り去れば良いのだ。
戦え。戦え――この愛のために。
戦い続けたその先に、二人の幸福な結末が待っている。
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匂色つぼみは、今の自分は幸せなのだ、と思いたかった。
……そのはずだった。そうでなくてはならないのだ。
少なくとも最初の二週間は、本当に満ち足りて過ごしていた。
結人と二人だけの、楽園のような暮らし。
新しい家は、結人のコネで入れてもらった特殊なマンションだった。
未成年ということや、警察の捜索から逃げていることも不問にしてくれるらしい。
誰にも見つけられて咎められる心配はない。
新しい人生。新しい家族。
結人は昼も夜も、自分のためにいろいろな仕事を頑張ってくれているらしい。
こんなタワーマンションに住んでいるくらいには、貯蓄はたくさんあった。
それでも結人は「将来をもっと良くするため」と言って、睡眠時間を削って働き続けている……おそらく、高校生にしてはあまり合法的ではない仕事で。
ホストとかだろうか、それとも、もっと犯罪めいたことなのだろうか――
心配で何度か聞いてみたが、答えてくれなかった。
例え何であったとしても、つぼみがそのことについて何か言う資格はない。
それよりも、働きづめの彼の様子を見ていると、自分の母のことを思い出して胸が痛んだ。
自分も、少しでも働かなければ申し訳ない。
そう思って結人に偽物の履歴書を用意してもらい、スーパーのパートで働き出した。
お金の問題ではない。とにかく、何か他人のためにすることがないと気が済まなかった。
そうして、つぼみの生活は再び充実するようになった。
仕事を終えて家に帰って、結人が「ただいま」と言ってくれるのが好きだった。
結人が忙しい日は、朝方と夕方の短い時間だけしか会えないけれど。
彼の生活リズムは、ものすごく不規則だった。
それでも一週間に一回くらいは、一日中、あるいは一晩中一緒にいられる。
それだけで、十分だった。
愛する相手と一緒にいられるなら、どんな生き方だってかまわない。
――大丈夫、これならずっと、うまくやっていける。
十年先も、二十年先も。
そう、確信していた。
……だから、自分から「この生活をやめたい」と思うなど、あり得ないことだった。
ちょっとした設定:
結人先輩の誕生日は七月七日です。
彼の母親は、「結人はまさに織姫(私)と彦星(未道)が結ばれた象徴」だと思っていました。