第11話 我々の運命
今日は諸事情により早めに投稿します。
研究棟の休憩室兼応接室。
どこもかしこも真っ白な施設の中で、唯一アンティークによって色味が加えられた部屋。戸棚、観葉植物、置時計、丸テーブル……。
座っている私の目の前で、高そうなカップに未道博士が紅茶を注ぐ。
深みのある茶葉の色と、ラズベリーの香り。
私は改めて、未道博士を観察する。
直接二人で話す機会は、今まであまりなかった。
くたびれたカーキ色のシャツと茶色いズボン、その上に白衣。まだ60代らしいのに、その頭髪はほとんど真っ白だった。でも毛量は多いし、鷲のように吊り上がった眉毛(これも白っぽい)も相まって、とても活気のある印象だった。
上品で落ち着いた雰囲気の中、いかにも紳士らしい見た目の未道博士が、にこにこしながら私の前に座る――そして、あまりにも場にそぐわない話を、穏やかな口調で話し始める。
それは、人類の救済計画。
彼が作った「コウノトリ」と言う機械で「胎教」を行うことで、胎児に人為的に「天使」の魂を呼び降ろすことができること。
天愛司が、その初の成功作であること。
天使は、人としての体を得る以前に、高次元に属する上位の知的生命体である。
天使は、人間と違って欠ける点が全くない。
運動能力は超人的。IQは150以上。あらゆる点において優れている。
そればかりか、人知を超えた奇跡を起こすことができる。
そして何より、彼らは人格的に「上」なのだ。
人間よりも、人間性が優れている。
天使は、自分勝手な欲望は決して持たない。
天使は、正義だけを愛する。
天使は、他者のために己を滅して戦うことを厭わない。
天使は、不屈の忍耐と決意を有している。
まさに我々が理想とすべき、人類の完成形態。
彼等こそは、世界を支配するべき存在だ――
我々を支配し、正しく導き、管理する「力」がある。
その支配の実現のため、天愛教団は彼らの教えと救いを説き、布教する。
博士はだんだん早口になって、穏やかな調子も失っていった。
「そう、それに比べて人間はどうしようもなく愚かだ……。知性も理性も自制心も足りなすぎる!その癖に自分中心の欲望には際限がない!全く大馬鹿だ!そう思わないかい?その欠陥のせいで何が起きているか見てみたまえ!戦争、環境破壊、貧富の差……!霊長類の進化は失敗だったと言わざるを得ない!個体数の増加には他にないほど特化していたが、その行き着く先は結局滅亡と決まっているのだ!」
彼は私と視線も合わなくなってきた。どこか遠い、高い所に視線を泳がせている。
博士が飛ばしたつばが私の顔やカップの中の紅茶に降りかかる。でも、彼は気づかない。
私は顔を袖でこすり、思わず彼を睨んだ。
「……なんだい、よくわからないかな?では考えて見たまえ……君自身も、今までの人生で思い知っているはずだ。君も、自分の得のために他人を利用し、あるいはないがしろに経験が一度となくあるはずだ……。」
「……………………。」
だから、何だというのだろう。なんで、私が怒られないといけないんだろう。
「でも、その結果幸せにはなれなかっただろう。」
「…………自業自得、ってことですか。」
私が苛立ちながら問うと、博士は目を細めて答えた。
「さあね?もしかしたら他人のせいかもしれないが、そんなことはどうでもいい。重要なのは、人間の欲望は他者の不幸を生み出す一方、結局その本人も、真の幸福など得られないということだよ。」
私は思わず口を挟んでしまった。
「……幸福になれないって、そんなこと、無いんじゃないですか。誰もが……って訳じゃないけど、ちゃんと努力さえすれば」
「無理だよ。」
博士はにべもなく言い切った。
「その『努力』と言うのは他人との蹴落とし合いに勝つことかい?なるほど結構。努力して勝って、しかも運が良ければ比較的苦痛の少ない人生を送れるかもしれないね……だが、それは真の幸福などではない。」
博士の態度は今や、私のことを何かの試験にかけているようだった。私はまな板の上で、手術台の上で、解剖され、採点され、審判を言い渡されるのを待つ――そういう立場だった。
「なぜならそのような人間も、結局不幸や苦痛からは逃れられないからだ。いつかは自分の身に起こるかもしれない。そうならないという保証がどこにある?」
――それは……。
どうして、そんなことをわざわざ言うんだろう。
そんなこと、私だってわかっているのに。
皆分かっていて、考えないようにしているからこそ、幸せの実感を失わないで済むのに。
私は視線を落としたかった。
でも、博士の射るような視線が私を捕らえて、逃がさない。
「われわれ人間には、絶対の幸福を得る力などない。にもかかわらず、その事実から目を逸らし、無意味な闘争に明け暮れ不幸を増産し続けている!」
「………それの、何が悪いんですか。」
私はまた言い返してしまった。
……いい加減、うんざりだった。
「皆、いつもわざと人を傷つけてる訳じゃないし……絶対なんかじゃなくても、少しでも多く幸せになりたいのは、当たり前だし……。」
「それはそうだとも!しかしね、実際は失敗しているんだよ。結果は今のこの腐った社会だ……じゃあ、いったい何が悪いんだろうね?」
――そんなの、わかんないよ。
「簡単なことだ、どちらも私たちが無能なのが悪いのさ!わかるかい?不幸と悪は、軌を一にしているのだよ!人間の理性が不完全だからさ!誤った欲望、誤った判断、誤った選択、誤った結果――すなわち悪、すなわち不幸だ。」
博士はため息をついた。
「…………だから、天使に支配されないといけないってことですか。」
「そう、その通り……。完全な幸福のためには、間違いが少しでもあってはならない。すなわち常に完全な正義、完全な良心だ。だが、そんなことは人間にはできないのだよ……どうあがいても。今の人類は……我々は、どうしようもなく間違っているんだ!」
……そんなこと、勝手に決めないで欲しい。
この人が一体なんでこんな歪んだ価値観になってしまったのかは知らないけれど、自分でした失敗の反省は、自分だけでしておいて欲しい。自分の不幸は、自分の責任だ。
勝手に、私とか他の人を「人類」とか言う括りで断罪しないでほしい……!
私は、まだ……まだ、未来があるのだから。
私だって、幸せになりたい。なれる。
そう信じているから、この怪しい人たちにだって頼ったのだから。
人生に絶望しろと言われる筋合いは、ない。
「だから、天使が世界を支配しただけでは問題は解決しない。もちろん、これは人間の身勝手な独裁なんかとは全く違う。わかるだろう?」
未道博士は私が同意している前提で、悩まし気に言う。
「でも多くの人間は、彼らの支配が気に入らずに反抗するだろう。残念なことだけれどね、我々人間は、『強者』が大嫌いなんだ。誰に従うことが正しいかわかっているのに、どうしても意地を張って抵抗したくなる。君もそうだろう?若者は大人の言うことには逆らいたいものだ。」
博士は穏やかな口調で話しながらも、私に口を挟む隙は与えない。
「しかし!それは全くの誤りだ。その醜悪な弱さはなんとしても克服しないといけないんだよ、難しいだろうけどね!何と言っても、自分より優れたものを見ることは、すなわち自分自身の弱さを認めることになるからね。それは、耐えがたい実存的な恐怖と苦痛をもたらす。道徳的な『強さ』も同じことだ。だからいつの時代も、聖人たちは厭悪され、迫害されてきた。……だからね、それを克服するために――」
我々が世界を統一した暁には、全人類の生殖プロセスに「胎教」を組み込む。
そうすれば、この世には完全な人間しか存在しなくなる。
全ての人間が、完全な幸福を実現することができる――
天使への「進化」こそ、人類がこの苦痛と憎悪と欺瞞に満ちた世界から抜け出す唯一の方法。
唯一の、救済の道なのだと。
……………………え、何これ?
私は、楽しそうに自分の狂った野望を語る博士を見ながら思った。
一体さっきからこの人は、何の話をしているんだろう。
人類がどうとか、罪がどうとか、幸福とか社会とか使命とか救いとか――
そんな話じゃなかったはずだ。
私と司の、将来の話だったはずだ。
こんなの、私は知らない。
そんな壮大な物語、私には関係ない。
でもいつの間にか、私はその渦中に巻き込まれていた。
私が主役のはずの人生は、いつの間にかどこかに消えてしまった。
この教団で、この建物で、この狂人の目の前で――
『お前も、俺たちも……この先の運命からは、誰も逃げられない。』
康祐さんは、そう言っていた。
「運命」って……世界とか、人類の運命のこと?
それが、私が逃れられない「運命」?
違う。そんなはず、ない。
そんなはずなかった、のに――
※未道信司は、今作最後のおじさんキャラとなります。
今後はほぼ登場しませんが、設定上の存在感はかなり強いですね。