第9話 天の川を超えて
つぼみはシャワーを浴びて、リビングにやってきた。
結人の服はサイズが一回り大きい。気恥ずかしいが、着心地は悪くなかった……彼の匂いがする。
つぼみは結人と並んでソファーに座り、これまでの経緯をのろのろと語り出す。
「そっか、大変だったね……。」
結人はグラスをスプーンでかき回す。
「ごめん、俺……つぼみの気持ち、全然知らなくて。あんなこと言って。」
「……ううん、私こそ。ごめんね……もっと前から、ちゃんと話し合っておけばよかった。」
二人の間に沈黙が下りる。
「……結人は最近、どう?叶多とはどんな感じ?」
少女は強いて明るい調子で聞く。
「…………別れた。」
「え……?」
予想もしていなかった返事に、つぼみは自分の立場を忘れてただ驚く。
「…………色々あって、もう、会えなくなった。」
結人は窓の外を見ながら掠れた声でつぶやく。
「色々あって」と言うのは、顔の左半分を覆うその包帯と、何か関係があるのだろうか。
つぼみは当惑したが、何も聞かないことにした。彼にも、彼の問題があるのだろう。
だが、結人は相当打ちのめされているらしく、自分から語り始めた。
「……俺のせいじゃないっ……!何の関係もない奴が、急に人の恋愛に口出してきて、邪魔してきて……正しくないとか許さないとか、勝手に言ってボコされてっ……。」
結人はつぼみから顔を逸らしたまま、下を向いて静かに泣き始めた。
「なんなんだよほんとにっ……!なんでいつも、こんな目に遭うんだよ……!なんで俺だけ、うまく行かねえんだよ……!」
「結人……。」
つぼみが思わず呼びかけると、結人はそれを待ち構えていたかのように、突然振り返って顔を寄せて来る。
包帯の上に涙が伝うその顔は、あまりにも哀れに見えた。
「俺が悪いのかな?俺が……俺なんかが愛されたいって思っちゃ、いけないのかなぁっ?」
結人はつぼみに縋りつくように嘆く。
「そんなこと、無いよ……結人は、素敵な人だよ……私なんかより、全然。」
そう言いながら、つぼみは目を逸らす。
思わず彼の肩に乗せてしまった手にも、迷いがあった。
今の自分が、彼を慰められる立場にいるのだろうか、と。
「私なんか……親にも愛されてないし。」
「……つぼみだって、悪くない。悪いのは母親だろ。」
「…………誰が悪いとか、わかんないよ……。」
二人は再び、同じ正面を向いて話す。
「…………それに、親に愛されてないのは俺も一緒だし。」
「……え?」
結人もまた、自分の家庭のことを語り始めた。
父親の暴虐。
そんな彼に愛されるため、従順であり続けた母。
父がいる場所では、息子には見向きもしない。
それどころか夫の「審判」の前には甘んじて息子を差し出し、懲罰を好きなだけ与えさせた。
母は結人と二人きりの時だけ、突然彼に甘え始めた。
「大丈夫だよ」とは一度も言わずに、「助けて」と泣きついてばかり。
だから結人は、そんな弱い彼女を守らなくてはいけない、と思った。
そうすることで、彼女の尊敬と関心を父から奪い取れると思った。
そうしてようやく、結人の願いは叶う。
……だが結局、その試みは成功しなかった。
やがて訪れる破局。
理不尽で一方的な責任転嫁。
困窮する母子。
……そして、母はさらに追い詰められていった。
「その頃母さんはいつも『疲れた、死にたい』ってばっかり言っててさ……俺のことも目に入ってるのに見えてないふりし始めて。飯も勝手に食え、って感じで、でも飯なんてない時も多いし。……それからどんどんおかしくなって。時々『あなただけは私の味方』とか言って泣きついてくるくせにさ、次の日には『邪魔だ』とか『死ね』とか、『あんたなんかいなければよかった』とか言ってきて……。」
やがて結人は、彼女がただ、自分を慰めたい時だけ、都合よく彼を利用しているのだと直感した。
端から結人のことを子供として愛してなど、いなかった。ただの恋人役の、ぬいぐるみとして都合がよかっただけ。
けっきょく彼女は、未道への依存から抜け出せてなどいなかった。
結人は、その代わりでしかなかったのだ。
孤独な少年はただ、与え続けるだけ。サービスをし続けるだけ。
愛の負債が、どんどんため込まれていく。
それに耐え続けたのもひとえに、いつかは母から利子付きの愛が返ってくるのを期待し、信じ続けていたからだった。
それだけが、彼の唯一の希望だった。
……しかし彼女は結局、最後まで自分のことしか考えていなかった。
「――遺言だと、俺に保険金あげるとか書いてあったけどさ……それって何年も前に書いた奴で……死んだ理由は、そうじゃない。…………死ぬ前の日に母さんが言ってたのは――」
『疲れた……もう全部、めんどくさい。』――そんな、独り言だった。
『めんどくさい』――そう言いながら、虚ろな目で結人を見た。
さも不愉快そうに、このお荷物を養うのが一番めんどうくさいのだと、いわんばかりに。
「………………。」
つぼみは、何も言葉を発することができなかった。
だがそれは、気まずさのためではない。
深い、同情だった。
同情どころではない、もっと深い所で、共鳴していた――心が、揺さぶられていた。
――私と、同じだ。
片方の親は死に、もう片方には裏切られて。
細かい違いはあれど、二人は驚くほど似た境遇にいた。
自分がこの少年に惹かれたのも、二人が同じ悲しみを背負っているからではないか。
そうだ、そうに決まっている。
どうして今まで気づかなかったのか、不思議なくらいだった。
医者になりたいと思った時と、同じ激情。
自分と同じ苦しみを持つ人間を、救わなければという衝動。
間違いなく、これが――自分の、運命。
紛れもない使命なのだ、と。
「母さんは、俺が思ってたような優しい人じゃなかった。俺が、そう思い込みたがってただけだったっ……!最初から最後まで、ただの自己中のクズだったんだよ……!自分はこんなに苦労してる、こんなに頑張ってる、だから偉いんだって。俺にそう言わせて、満足してただけなんだよっ、勝手にっ!それで最後も勝手に死んだ……俺はただの代替品で……家族じゃなかった。」
結人は顔を手で覆いながらすすり泣く。
「結局さ……みんな、自分のことしか考えてないんだよな。いつもみんな、俺を利用するだけ利用して、勝手に俺から離れて、勝手に死んでくだけ……。」
「……………………。」
少女は顔をあげられない。
ただ、目の前のグラスにだけ視線を合わせていた。
さっきから、一口も飲んでいない。
――何か、何か言わないと。何か、救えるようなことを言わないと……!
そう思って気が急いていたのだ。
……だが結人も、そんな彼女の様子を見て焦っていた。
さっきから身の上話で時間を稼いでいたのに、それが裏目に出た。
そもそも彼女は、出された飲み物を遠慮して飲まないタイプだった。
だったらせめて、ただ自分に同情してくれるだけでもいい――少しでも、長くとどまって欲しい。
「結局…………愛なんて、そんなもんなのかな。」
「――そんなこと、ないと思う……。」
つぼみは恐る恐る、結人の方を見る。
彼はまだ、顔を上げようとしない……だが内心では、彼女が次に何を言うかと全身を耳にして期待していた。
「お母さんは、結人のこと……ほんとに好きだったと、思うよ。」
自分がとやかく言えることではないと、わかっている。
だが、少女は自分の言葉を止められない。
「だって、そもそもお母さんが頑張ってたのは、結人のため、でしょ……でも、気持ちに余裕がなくなっちゃって、なんのために頑張ってたのか、わかんなくなっちゃったんじゃないかな。それで、もういっぱいいっぱいになっちゃっただけだじゃ、ないかな。」
少女は精一杯言葉を尽くす。
これが本当に正しい慰めになっているかどうか、わからない。
自分なんかに人が救えるのか、わからない。
その先に自分が何を言おうとしているのかさえも、わかっていない。
それでも……言わなければ、いけない。
せめて、この強い気持ちだけでも、伝わって欲しい――!
…………そう、その気持ちは、確かに伝わっていた。
「……なんで、そんなこと言えんだよ……つぼみだって、俺のこと愛せないんだろ!?」
結人は顔を手で覆ったまま、突然大声を出す。にやけた顔をさらすわけにはいかなかった。
「……それは。」
「結局みんな同じなんだろ!そうやってみんな、俺から逃げるんだろっ……!」
そう言いながら顔を上げた結人の目は、まるで子供のように赤く泣き腫らしている。
つぼみは罪悪感で胸がズキン、と痛んだ。
「――ああ、ごめん、つい……。……つぼみは、励ましてくれようとしたんだよな、うん。大丈夫、別に、気にしなくて、良いから……。」
「結人……。」
「――やっぱり、俺がダメだからかな。」
「え?」
少年が絞り出すように言う。
「俺っ、人に好かれるとか、そもそも無理なのかなぁ……!?やっぱりクズの親から生まれた子だからっ、俺もクズ、ってことなのかなぁ……!?」
「――違う、違うよ。」
少女は腰を浮かせる。
「――お前だって、今もしょうがなく俺のこと慰めようとしてるけど、ほんとは嫌いなんだろ。だから――」
「――私はっ!もう逃げないっ!」
少女は少年の体を強く、抱きしめる。
「…………つぼみ。」
「もう逃げないからっ……私だけは、どこにも行かないから……ていうか、私も結人と一緒で……帰る場所、ないから。だから…………!」
少女は少年とまっすぐ目を合わせる。
数時間前までの自分は、生きること自体から逃げようとしていた。
生きる理由を、見失っていた。
だがもう二度と、逃げることは許されない。
……これが、最後のチャンスだ。
もう一度、生きる理由を――手に入れるチャンスが。
「だからさ、結人が私の居場所になってよ…………私も、結人の居場所になるから。もう結人以外、誰のことも考えないから……!」
結人は目を見開いた。
自己憐憫に浸ることで無理やり絞り出した涙の跡は、とっくに乾いている。
その上に、今度は感動の涙が重なって伝った。
二人はお互い迷うことなく、唇を重ねる――互いの欲を、押し付け合う。
――ああ、なんて献身的な女なんだろう。
自分と同じように大人たちに裏切られ、見捨てられ、遂には彼らと袂を分かった少女。
だからこそ自分のために――自分のためだけに、生きることを宣言してくれた。
まさに、理想の花嫁。
最後のチャンスと思った愛本叶多も取り逃がしたばかりか、命を危険にさらされ、自分の大事な顔に傷までつけられた。
そんな哀れな結人の元に、彼女は天女のごとく舞い戻ってきた――最後の救い、最後の希望。
間違いない、これが――運命だ。
もう二度と、誰も二人を引き裂くことはできない。
この子が――自分の人生を、ハッピーエンドに導いてくれるのだ。
小さいころ母が読み聞かせてくれた、童話そのままに。
『――こうしておりひめとひこぼしは、いつまでもしあわせにくらしましたとさ。』
……………………めでたし、めでたし。




