第7話 蜃気楼
その日曜日、愛本家では珍しく、父母共に在宅だった。もっとも、それぞれ残業を持ち帰っており、会話は少なかったが。
いつも通り、親子三人バラバラの時間に昼食を取る。朝食の時も同じだった。
何の変哲もない、日常の風景が過ぎていく。
しかし娘は、それがいつも通りだとは思わない。むしろ、何もかもがいつも通りであることに対して抗議したい気持ちだった。
彼女は今朝、この家で朝食を食べてなどいない。
と言うより、二か月間ずっとこの家にはいなかった。
それなのに、両親は彼女が突然帰ってきても驚きもせず、「おかえり」とも言わない。ただ、あたかも彼女が朝からずっとそこにいたかのように振る舞っていた。
母は居間のテレビを見ているとき、4か月前の水族館での事故のニュースに対して「恐いわねぇ」、と他人事のように言っていた。
父は、叶多がラインで司と会話しているのをのぞき込んで、「なんだ、司くんか。……ああごめんって。言っとくけど、勝手に恋人作ったらだめだからな。」と、笑いながら言った。
二人とも、叶多と結人に関わったことの一切を忘れていた。
狂っているのではない。
全くの正気、全くの普通だった。
この街の他のすべての住人と同じように。
この世界で異常なのは、愛本叶多と言う存在、ただ一人だった。
そんな叶多から、二人に対して言えることは何もない。
なんで気づかないの、とも。
すごく怖かった、とも。
どうして探してくれなかったの、とも。
……お願い助けて、とも。
今の彼女の異常な訴えを認めてくれる存在は、同じ異常に属する者だけだった。
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月曜日の朝。
私立宿根高等学校は、登校してきた学生たちでにぎわっている。
いつも通りの、日常の光景。
そんな教室に、二人の「異常」が肩を並べて入ってくる。
クラスメートの晴翔や宗太は、二人が一緒にいるのを見て驚き、小声でささやき合う。
叶多はそんな二人を無視して、司と離れて自分の席につく。
クラスの中での、決まっている自分の位置づけ。何もおかしなことは無い。
だが司はその様子を複雑な気持ちで眺めた。
先週まで、その席は麗奈が座っていたのだ。
叶多を保護したその次の日、クラスの座席が一つ余った。
だが、この狭苦しい教室の中だと言うのに「予備」用の座席があったことになった。
司はそれでも、「真ん中が空いてるなんておかしい」と指摘した。
すると近くの席の麗奈が、「あれ……?まちがえちゃった。」と虚ろな表情で言いながら、おもむろにそこに座った。
その瞬間から、クラス中の生徒が次々と同じような放心状態になった。
そしてドミノ倒しのごとく次々と座席の移動を始め――あっという間に、愛本叶多という空白を消し去ってしまった。
彼女が同じクラスに在籍していた事実を、覆い隠してしまった。
そんな彼らが今日、また突然元通りに戻ったのだ。
彼らにとっては、先週までも何も変わっていなかった。自分たちがそんなおかしな行動を取ったと聞いても、信じないだろう。
司は彼らを責める気にはならなかった。彼らが憎いとは思わない。
だが……そんなクラスの様子を見るのは、やはりどこか気持ち悪かった。
それと、気になることはもう一つあった。
園安結人と言う、「悪魔」のことだ。
司自身、彼と何かしらの交流があったことは、なんとなく覚えている。それに、自分が彼と一度交戦して敗北を喫したことも。
だが、その顔と名前に関しては、ぼんやりと霧がかかったように思い出せない。
今朝は叶多と一緒に、彼が所属していたと言う三年B組に行ってみた。
当然のごとく、彼は「いなかった」ことになっていた。彼の友人や部活のメンバー達に尋ねても、首をかしげるばかり。
だが、叶多だけが彼のことを覚えているというのも奇妙だった。
司が「他に覚えてる人、いないかな。」とつぶやくと、叶多がおかしなことを言った。
「……図書室の先生なら、覚えてるかな。」
「……え?先生って、司書さんのこと?」
「うん。ほら、あの銀髪の……途ケ吉先生、って人。先輩と仲良さそうだったし。」
「……そんな人、いないよ。だって図書室って、二年前に閉鎖されたじゃん。」
「……え?」
叶多の表情が固まるのを見て、司はすぐに理解した。
――そいつも、そうなのか。
「だって、図書室普通にやってたよ……?ていうか、司も、先生と仲良さそうだったんだけど……全然、覚えてない?」
「…………覚えてない。その人、僕とどういう関係だったの?」
「……なんか、昔から友達、みたいな。…………あ。」
叶多はその時初めて、前に司に言われたことを思い出した。
「そうだ……幼稚園の時、担任の先生だったって。」
呼び起こした自分の幼い記憶の中にも、確かに彼の姿はあった。銀髪に黒縁の四角い眼鏡、黒いタートルネック――間違いようがない。
そう言われて司は、確かに幼稚園の頃の記憶の欠損を認める。
とても仲のいい先生がいた。男の人だった。変わった人だった。そう言った抽象的な情報は覚えている。
……だが、彼の具体的な容姿や性格は、まったく思い出せない。交わした会話さえ、一片たりとも覚えていない。
だがなぜか、叶多だけは二人のことをはっきりと覚えていた。
まさか、あの「毒」を飲んだ影響が、まだ残っているのだろうか。
だとすれば彼女の体が心配だが、少なくとも記憶の件に関しては予期せぬ僥倖だ――言うなれば、不幸中の幸い。利用しない手はない。
「……他に消えた人、いないかな。」
もしかすると、この学校中が敵の巣窟だったという可能性も、ある。
司は念のため、叶多にLINE等を使って、消えた知人などがいないか調べてもらうことにした。
ところで叶多によれば、途ケ吉人志は川上葵とも何か接点があったらしい。それを聞いた司の中で、彼に対する疑いは揺るがないものとなった。
――なんで、そいつは僕につきまとってたんだ?
考えられる目的は……監視、とか。
であればなぜ、今まで何の危害も加えられなかったのか。彼の存在が、司を通して教団に伝わるリスクはどうでもよかったのだろうか……あれこれ考えても無駄だった。
叶多の話を聞く限り、彼の正体に関する情報は、記憶を消されるまでもなく皆無に等しかった。
まるで雲のように、つかみどころがない存在。
あると思って手を伸ばしても、その途端に消えて行ってしまう。
あたかも、元から幻だったかのように。
存在自体が蜃気楼のように、像が歪んで、正しく見えなくなってしまう。
途ケ吉人志も。園安結人も。
確かに、二人ともそこにいたはずなのに。
悪魔たちは、まるでこちらをあざ笑うかのように、闇の中に溶けて消えてしまったのだった。




