第5話 傘
本日の分です。
匂色は孤独な努力を続けるうちに、次第に心身の調子がおかしくなっていった。
周りの友人たちは気づいていただろうが、敢えて口には出さない。
後輩たちが勝手に自分を『文武両道』と評しほめそやすのが聞こえてくる。それに対してわざわざ否定する気は起きなかった。
弱音を吐けるような相手はいない。そんな関係は、つぼみ自身が望んで築いてこなかった。
……恋人に対してもそれは、同じことだった。
三年生になってすぐに、告白された。
初めて会った時からずっと好きだった、と言われた。
彼は顔も性格も良いし、自分も一年生の頃から憎からず思っていた気がする。むしろ、今までなぜ何の関わりもなかったのか不思議なくらいだった。
恋人としての彼は、普段のイメージに反して甘えん坊で寂しがり屋で、ロマンチストだった。
かなり変わった人だと思ったが、そんな一面もすぐに好きになった。
……ある日、彼が険しい表情で尋ねてきた。
『——ねえ、なんで最近、全然会ってくれないの?』
勉強が、忙しいから。
そう何度も言っていた。だが、納得してもらえない。
『叶えたい、夢があるから――』
意を決して打ち明けたものの、彼には通じなかった。
――高校卒業したら、結婚しよう。
付き合い始めて二か月も経たない内に、何度かそんなことを言われていた。
別に同意した覚えはない。だが、別に拒否したわけでもなかった。
きっと、しばらく勉強のために距離を置くことになる。それに、進学後は自然に別れることになってしまうかもしれない。
それでも、可能性は残しておきたい、そう言う願いがあった。
――自分勝手、だよね。
頭のどこかでそう、わかっていた。
それでも、彼との恋を捨てる訳じゃない——そう自分に言い訳して、彼に『ノー』と言うのを先延ばしにしていた。
自分の中途半端な望みを、押し付けていた。
自分は二つの望みを同時に抱えきれる器量があると、思いあがっていたのかもしれない。
『――『誰かを、助けたい』……?『誰か』って、何だよ……!どこの誰かも知らねえ奴を助けたい?でも俺とは結ばれたくないってのかよ!?俺よりそいつらの方が大事なのかよ!?』
『え……違うよ、両方大事なんだよ!』
『はあっ!?なんだよそれ……!誤魔化してんじゃねえよ!その夢のためには、俺が邪魔だってことじゃねえのかよ!?そんなもののために、俺のこと捨てんのかよ!?』
『……『そんなもの』なんて言わないで!?何言ってんのっ……将来の夢と、恋は関係ないでしょ……!』
「別れるって決めたわけじゃない」。そう言うつもりだったのに、彼の暴言を聞いてそれどころではなくなってしまった。
そして彼の反応は、つぼみが予想したよりはるかに過剰なものだった――常軌を、逸していた。
『関係なくなんかねえよ!俺とお前の未来は一緒のはずだろ!何でっ……俺と関係ない未来なんかっ描こうとしてんだよ!』
『違う……違うじゃんそれは……なんで、そうなっちゃうの……。』
結局、つぼみは最後まで耐えられなかった。
『――俺が、こんなに傷ついてんのに……何も感じねえのかよ。俺のことはどうでも良いのかよ。どうしても、そっちを選ぶって言うのかよ……。』
――何なの、こいつ。
もうどうでも良い気がして、『その通りだ』、と言ってしまった――
そうして結局、匂色は恋を捨てることになった。
自分の苦しみも、努力への迷いも、結局打ち明けられないまま。
それどころか、また一つ、大きな傷が増えてしまった。
相手を傷つけて、自分も傷ついた。痛み分け、という訳にはいかない。その分、自分が感じる分も痛みが二倍になっただけだ。
誰かとのつながりを切り捨てる痛みは、それだけでは終わらなかった。
友人たちは、付き合いの悪くなった自分のことを次第に遠巻きに見るようになっていった。
ある友人は、彼女の努力が度を過ぎているのでは、と心配してくれたが、つぼみは苛立ち紛れにその言葉をはらいのけてしまった。
……それからは、誰もつぼみと口を聞かなくなった。
あと、もうひとつ後悔しているのは、部活を辞めるとき、部活の後輩たちには結局何のあいさつもできなかったこと。
合わせる顔が、無かった。結人の新しい彼女も、いつのまにか部活に来なくなっていたらしいが、彼女との関係も、なんだか気まずい雰囲気で終わってしまった。
やがて唯一――いつも傍で見守ってきた母親には、異変に気づかれる。
今まで心配の声かけは何度もされていたが、その度に笑顔であしらってきた。 だが母も、遂に見ていられなくなったらしい。
ある日とうとう、泣かれてしまった。
もう頑張らなくていい――と、言われた。
『もういいのよ!もう!見てられないんだってば……!そんなにしてまで、お父さんのためにっ、義務感で頑張らなくてもっ、いいじゃない……! ……お父さんはもう、いないんだから!もうつらいことは忘れていいんだってば!あなたは、あなたはもっと……自由にしていいのよ。』
『……………………は?』
――私が、義務感に縛られてる?
違う、私は自由だ。お父さんに縛られてなんかいない。私はそんな子供じゃない。ちゃんと自分で考えて、自分のやりたいことを選んだんだ。
その努力をただの徒労のように評され、妨げようとされるのは、絶対に許せなかった。
だがもっと許せないのは、『お父さんはもういないんだから』と言ったことだった。
――お父さんはもういないから、もう忘れて良いって言うの?あんなに長い間すごく苦しんでたのを、もうどうしようもないって宣告されて、寂しそうに死んでいったのを、忘れていいって言うの?
そんなこと、できる訳ない。私はその苦しみにきちんと向き合って、同じ人の苦しみを無くそうとしてるのに!
お母さんはあんなに、お父さんのこと愛してるって、言ってたのに。『ずっと忘れない』って、言ってたのに。『忘れて良い』、なんて…………。
その後、自分が何を喚き散らしたかは、よく覚えていない。
ただ確かなことは、母との間にも、決して消えない溝ができたということだけだった。
つぼみはもちろん、母が父を愛していないだなんて、本気では思っていなかった。
自分はただ、頭に血が上った勢いで、理不尽に母を責め立てているだけだ。そう自覚していた。
だが、半月ほど後。更なる追い打ちが——否、とどめの一撃が、やってきた。
つぼみは母と口を聞かなくなり、謝る機会を伺いつつも、つかめずにいた。
そんなある夜、彼女が家に帰ると——そこには、母と、見知らぬ男性が、待っていた。
『――つぼみ。紹介、するわね…………この人は、坂田洋介さん。…………あなたの、新しいお父さんよ。』
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………あ。
自分の中で、何かがぷつっと切れる音がした。
――ああ、なんかもう…………駄目かも。
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つぼみは雨の中を走り続けていた。
不意に足がもつれ、水たまりの中に倒れこむ。
大きく水しぶきが上がる。
「う、うう……。」
少女の口から嗚咽が漏れだした。
やがてその嗚咽は泣き声に変わる。周囲には誰もおらず、人目をはばかる必要はなかった。
いいんだ、もう。
どうせ、誰も私を見ていない。
もう、私が頑張る理由なんてない。
私が生きる理由なんてない。
もう、何もかもどうでも良い。
…………じゃあ、これからどうすればいいんだろう。
少女はただ、泣き続けた。
涙は流れ続けた。
雨は降り注ぎ続けた。
……やがて突然、その両方が止まった。
少女が顔を上げると、頭上に一本の傘が差しだされていた。
「……久しぶり、つぼみ。」
「……結人?」
「大丈夫?怪我してない?」
その少年は――いや、その男は、手を差し出して微笑んだ。
大雨の時って、傘を差しても結局フードとかが濡れてしまうの、嫌ですよね……。




