第4話 Why do you fall?
……嫌なことは、思い出さないに限る。
結人はできるだけ、今とこれからのことだけを考えるようにしていた。
もう、昔の恋人達の顔は、頭から完全に消し去ったはずだ。
今の自分には、愛本叶多しかいない。
「先生」は――自分を拾ってくれたこの男は、相変わらず自分の恋を応援しているらしい。
しかし、同情は一切してくれていないことはわかる。
きっとこれも、彼の仕事のようなものなのだろう……彼の自分に対する感情について、深く考えたくはない。
時々結人は、自分のこの男に対する感情がどんなものなのか、よくわからなくなる。確かにこの男は自分の保護者であり、依存先なのだった。だが……。
やはり、考えたくない。
今の高校に入りたいと言ったのは自分だが、途ケ吉はその先で当然のごとく待ち構えていた……まるで運命である。
図書室の司書と言う、いかにも目立たない役職だった。だとしても、彼が教員免許を持っていると言う事実は、ずいぶん奇妙だった。
ある日の、放課後の図書室。
「先生」の前で、結人は叶多への愛を語っていた。それは半分、自分に対する宣誓でもあった。
その時彼は、その部屋には自分と先生の二人しかいないものと思っていた。
……しかし、彼の宣誓は、天愛司にしっかりと聞かれていた。
彼は平然と二人の間に歩いてきて、カウンターに本を置く。
その際、結人にも「こんにちは」と笑顔で呼びかけた。
結人は顔を赤くするが、司は気に留めない。
結人の司に対する感情は……何とも言えないものだった。
半年ほど前、初めて会った時――彼は結人に対し、『愛本叶多と結婚して欲しい』と言ってきたのだ。
意味が分からなかった。
彼に言わせれば、『皆が一番幸せになれることが一番いいこと』だかららしい。
ますます意味が分からなかった。
結局、どうにも薄気味悪い感覚が残ったが、それ以上追求しても無駄だと思い、遊園地での段取りを調整することにした。
途ケ吉と司でペアを組み、一年生の男子一人は外れくじとしてカースト下位の奴に押し付けた。その結果女子が2名も余ることになり、他の男子との交渉もしやすくなった。
だが、結人はそのことを素直に恩とは受け取れなかった。
何か裏があるのではないかという気がしたのもそうだが、それよりもただ単純に、困惑していた。
「先生、この本借りるよ。」
結人がそのタイトルを見ると、「長靴下のピッピ」だった。
「子供の頃よく読んでたんです。久しぶりに読もうと思って。」
彼の視線に気づいた司が、はにかみながら言う。
「あ、そう……。」
結人は、苦手な種類の趣味だと感じた。
「あれ、そう言えばさ、この前聞きそびれちゃったけど、」
と、先生が言う。
「前に読んだ『堕落論』はどうだった?最近は柄にもなく、大正の作家を読んでるみたいだけど。」
「うーん。」
司は首をかしげる。めったにする人はいないのに、彼がすると違和感のない仕草だった。
だがそれだけでも、結人はなぜか苛立つ。
「著者の坂口っていう人は、不幸だったのかな。『絶望しろ』とか『堕落せよ』とかさ……なんでわざわざそんなこと言うのかなって。」
「さあ、どうだろうね。なかなか破天荒な人間だったらしいけれど。」
「……昔の日本人にとっては、死ぬことは美しかったって……今でもそうなの?」
「そんな訳ねぇだろ。」
思わず結人は横から口を挟む。
「死んだらそれで終わりだろ。そんなこと思う奴は、『思想』みたいなのを語る奴らに騙されてるだけだ。」
「そうなんですか。」
「馬鹿だったんだろ……でなきゃ、自分で戦う勇気がなかったんだろうな。」
馬鹿馬鹿しいことだ。
昔の人間はみんな自分の幸福という概念が欠けていたらしい。
そんな人間たちについて読んでも何も得られるものはない……成功者の話ならば別だが。
「でも、その人たちは実際、自分がしたくない悪いことをして生きていた……だからら、そこから逃げ出して正しくなるには、美しくなるには――死ぬしかない。正義も美しさも、心の中の天国にしかない……そう思った。」
司は途ケ吉の顔を見て言う。
「――正しく生きて幸せになることは、できないのかな。」
……その横顔には、憐憫以外の何も浮かんでいなかった。
それを見て結人は、驚きと唐突な吐き気を覚える。
司はあたかも、自分には全く関係のない世界の話をしているかのようだった。
「蝉は一週間で死んじゃうんだって」と言われて、「人間より短くて可哀想だね」と子供が答えるような、そんな口調で――
「……は?……お前、何言ってんの?」
「え?」
「『正しい』って、何の話?」
「あの本の話、です……あ、小説じゃなくて、エッセイみたいな感じらしいんですけ
ど。」
「いや、そうじゃなくてさ。なんでそれが『幸せ』とくっつくの?」
だがその問いに対し、司の方が困惑する。
――何を言っているんだ。この人は。
「え……だって、正しくなれれば良いじゃないですか。……坂口さんは、どう思ってたんでしょうね。自分が生きるのも正しいけど、そのために他の人の食べ物を盗むのは良いとは言ってなくて、でも、だから『堕落』するべきなのかって言うところが――」
「良いに決まってるだろ。」
結人は遮って言った。
「食わなきゃ死ぬじゃん。『正しい』とか関係ないだろ?死にたくないとか、何か欲しいって話だろ?」
結人は無駄に苛立ちを覚えていた。
こんな話には何の意味もないのはわかっている。
ただ、目の前のこの歪な「人間」の存在が気味悪かった。
早く間違いを認めさせなければいけない、そんな気がして――
「……でも、悪いことはしたくないでしょ?」
「――それは、そうする勇気がない奴らのことだろ!自分のためにやったことで他人に非難されるのが怖い奴らだ、あれは間違ってるとかこれが正しいとか言い散らして、自分では何も責められないで済むように高みの見物してる無責任なクズの話だろ!?」
それはまるで、あの男のように――
「…………『責任』。」
司の目が見開かれる。
――間違いが無いようにするのとは、違う……。
結人のその言葉は、本人も意図せず、司にとって天啓のような働きをした。
「おいおい結人くん、なんでそんなに怒ってるんだい。後輩がかわいそうじゃない
か。」
途ケ吉が笑いをかみ殺しながら言う。
結人は司から身を引きながら、自分を落ち着かせる。
「…………ありがとう、園安先輩。」
「……はあ?」
「参考になったから。」
「…………はあ!?どういうことだよ。」
またしても上から目線の口調に対し、結人の怒りがまた再燃する。
「大丈夫。……きっと、あなたも正しくなれるよ。」
「はあぁ……!?お前、なんでそんな偉そうに――」
「――叶多のこと、愛してるんでしょ。」
「……………………。」
司は結人のことを笑顔で見つめる。
結人は視界が赤く染まっていく気がした。
――何だ、こいつ……!気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い……!
「……お前がっ、」
結人は司の胸ぐらをつかもうとする。
「俺の何を知って」「こらこらぁ。」
途ケ吉が結人の腕をつかんで止める。
「全くもう、今日はどうしたんだ結人君……受験期のストレスかい?それとも持病の
発作かな?」
途ケ吉は嫌味っぽく言う。
だが、それが嫌味であることは結人にしかわからない。途ケ吉は紳士面が実にうまいのだ。
「…………っ!」
「いいじゃないか、司くんにはもう帰ってもらおうよ。」
結人はそう言われて腕から力を抜く。そして司のことをにらみつけた。
「…………園安先輩、大丈夫、ですか……?」
「失せろ。」
「……………………?」
司は気遣わし気にこちらを振り返りながら、図書室を後にした。
……その後も、結人はしばらく毒づいていた。
途ケ吉は笑うのを我慢しながら、それを適当に受け流す。
「……さてと、結人君。ようやく本題の、今月の課題図書だ」
そう言って途ケ吉は、カウンターの下から本を取り出す。シェイクスピアの「ハムレット」だった。
「……うわ、長いし古い奴じゃん。読む気失せるわ。」
「まあまあ。どうせ今月は暇だろう?最近は物騒だからねぇ。遊んですらいられない。」
確かに暇ではあった。もしかしたら読むかもしれない。
結人は本に挟まった茶封筒を確認する――今月の小遣いである。
――いつまでもこんなことやってられねえな。
早く、この男に頼らないで済むようにならないと。
そう思いながら、結人は部屋を後にした。
**************************************
結人も部屋を出て、途ケ吉一人だけになる。
しばらく経ってから、彼はようやく気兼ねなく笑うことができた。
「フフッ、フハハハハッ、アハハハハハハッ……!」
――――愚かな兄弟達。
それぞれが勝手に、自分の見たいものだけを見ている……!
途ケ吉は、眼鏡の奥から冷酷な目つきをのぞかせる。
「――――さて、司君。叶多君についてはどう『責任』を取るのかな……。」
園安結人の回想、終了です。次回から現在に戻ります。




