第5話 異変
今日はあともう一本投稿します。
次の日――日曜日。
……………………今朝からずっと、現実感がない。
私はずっと、ベッドの上でぼんやりしていた。
昨日のあれは……夢だったんじゃないか。
雨で湿気が多かったし、記憶がぼんやりして夢と混ざったんじゃないか。
でも、そんなはずがないってわかっていた。
あの水族館での出来事は、最悪なことに、先輩とのデートの記憶と地続きだった。切り分けようがない。
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あの後、従業員さんたちに見つけられた私たちは、狭い休憩室に連れていかれた。
タオルを貸してもらって最低限体を拭いて、ストーブで体を乾かさせてもらって――
その時になって今さら、先輩の前で服が透けててけっこう恥ずかしいことになってるって気が付いて顔が赤くなった。
隣に座っている先輩は気づいていたらしいけど、何も言わなかった……それどころじゃなさそうな感じだった。
すごく落ち着かなくて、目が泳いでいた――私とも、全然目を合わせてくれない。
私も同じ、というかもっと動揺していた。
全身の震えが、止まらなかった。
きっと、ただ単に濡れて寒いせいじゃないだろう。
何とか震えを抑え込もうと、私は両手を組んでぎゅっと握った。
……ダメだった。全然、収まらなかった。
そうしたら、先輩が座ったまま、ぎゅって抱きしめてくれた。
『大丈夫。もう大丈夫だから――恐くないよ。叶多は俺が守るから。』
そう言って、背中を抱え込むように撫でまわしてくれた――私は少し、懐かしい気がした。でも、記憶の中のそれとは違う感触で、むしろ安心した。
『どんな敵が襲って来たって、俺がぶっ殺してやる。』
そう言って、もう片方の手を二人のお腹の間に差し入れて、私の両手の上に重ねる。
そうしている間に、従業員さんが二人、部屋に戻ってきた。
……ちょっと気まずかった。
従業員さんたちは、私たちに色々質問した。なんで水槽の上にいたのか、とか、なんで濡れてるの、とか、なんで水槽と足場が一部壊れたのか、とか。それから……そこには、あの魚男の服だけが残っていたらしい。
本当にあの化け物は……消えてしまったみたいだ。
そんなこと聞かれても、私たちにだってわからない。
詰問されたって、どうしようもない。
……正直に言っても、信じてもらえないに決まってる。
でも、先輩がとっさに上手く答えてくれた。
――通路を普通に歩いてたら、急に水槽が割れて水があふれ出してきたから、頑張って泳いでたら上に着いた。他のことはよくわからない。……みたいな感じで。
少し嘘も入っていたけど、ほとんど本当のことを言っていたし、ありえなくはなさそうな説明だった。だからちょっと反応は悪かったけれど、信じてもらえた。
その後、警察の人が来たりして色々あったけれど、何がどうなっていたのか、私にはよくわからなかった。
当然だけど、廊下中が水浸しになってしまって大変だったらしい。
びしょぬれになったのは私たちだけではなかった。
そればかりか、溺れて緊急搬送された人もいたみたいだ。
先輩が、とにかく私を早く家に帰したいって言ったら、警察の人に『また後日』と言われた。
事情聴取、と言う奴だろうか……面倒くさい。
と言うか、家でこのことを親に話すのがもっと面倒くさかった。
あの人たちはトラブルが大嫌いだから。
『自分から危険に近づかなければ、悪いことなんて絶対起きないんだから。』
それがお母さんの口癖だった。
それはそうなんだけど、あの人はたまたま巻き込まれたって言うだけでも、私の危機管理能力のせいにしかねない。
と言うより、もっと重大な問題があることに気づいた。
私が勝手に先輩と交際していることも、バレる。
しかもお母さんは、関係ないその二つの気に入らないことを結び付けて、ますますヒステリックに騒ぐはずだ……想像するだけで憤りが抑えられなくなる。
何とかバレずに済ませられないかと思ったけれど、警察の人が『保護者の方に連絡させていただきます』と言い放ったので、諦めるしかなかった。だからせめて、先輩のことは『ご友人』って言うことにしてもらった。
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結局やっぱり、お母さんはわめき散らした。
お父さんはお父さんで、水族館の安全管理の問題だと思って怒っていた。
話がそっちに逸れてくれればよかったんだけれど、お母さんは聞く必要もないのに『ご友人』の性別とか名前まで詳しく聞いてきた……しょうがなく話した。
そうしたら、お父さんが「これは俺の役目」みたいに粋がって、説教を始めた。
親に言わずに交際するなんて疚しいとか何とかって……そんなのどうだっていいじゃん。
あんな怖い目に遭ったんだから。そっちを心配してたんじゃねえのかよ。
携帯を取り上げられた。
結人先輩に連絡して、今度「四人で」話し合う約束をするらしい。
理不尽だと思った。
頭の中が、ぐちゃぐちゃだった。
訳わかんない、嫌なことばっかり。
おかしい、違う、やめて、何?
嫌、怖い、女、凶器、狂気、異常、化け物、人間?溺れて、苦しい、死。助けて、先輩、先輩。許されない。背中に添えられた手の温かさが。守って、誰か、誰も、責める、ヒステリー、怒り、敵、敵、オレノテキ――
違う問題の境目が、違う出来事への気持ちの区別が、わからない。
「…………結人先輩。」
会いたかった。
会って話して、昨日の記憶は全部嘘だったって思わせて欲しかった。いや違う、それはできないのはわかってる。一緒に恐怖を分かち合いたかった。縋りつきたかった。逃げたい。あの化け物のフラッシュバックから。この家から、この、壊れそうな、現実感のない世界から――
お父さんが掛けても、先輩とは連絡が付かないらしい。
きっと、先輩も私みたいに寝込んでいるのだろう。
そう言えば、住所一回も聞いて無かった……。
午前中、家に警察が来て、両親と一緒に短く話をした。
大体、前に水族館の人に話したことをもう一回確認されただけだった。
…………そして、午後。
先輩の方から連絡があった。
私は話したくてしょうがなかったのに、クソ親父が出やがった。
何を話しているのかは聞こえなかったけれど、お父さんが言いたいことを言う暇は、無かったみたいだった。
何かメモを取っていた。
電話が終わるなり騒ぎ出したお母さんに対し、お父さんは言った。
「……その話はあとでいい。叶多。」
お父さんは私にメモを渡した。
水瀬市の、どこかの住所が書いてあった。
「…………病院?」
お父さんは混乱したような顔で言った。
「園安君そこにいるらしいから、会いに行ってあげなさい。……通り魔に襲われたらしい。」
…………………………『なんで』。
それが、私が思いついた、唯一の言葉だった。
なんで、これ以上――――壊そうとするの?
私は思考停止したまま、焦って身支度を始めた。
追記:修正を加えました。水槽の水があふれ出しても、さすがに溺死する人はいないですね。
今調べていて知ったのですが、去年の年末にドイツの水族館で世界最大の円筒形水槽が崩壊する事故があったそうです。ちょうどこのあたりの原稿を書いている頃でした。知らなかった……。