88輪目 ユキヤナギー気ままー
「おはようございます」
「おう、おはようさん」
その日の放課後、バイト先のレストランへ行くと、料理長が真面目な顔でパンフレットのようなものを読んでいた。
「なに読んでるんですか?」
「んー? こないだ取材来たから、その記事の確認」
「へー!」
記事の中身を盗み見ようと背後に回ると「もう見終わったから」とそれを丸ごと手渡される。
それを受け取って目当ての記事を読んでから、その周りの記事にも目を通す。地域のグルメ雑誌なのか、この辺りのお店がいくつか紹介されていた。
「料理長」
「なんや?」
「この中で料理長がおすすめの店とかありません?」
僕の質問に対して、怪訝な顔をした料理長は、それでも答えようと少し考えて、口を開く。
「……ウチ」
「いやっ……それは知ってますよ……! なんていうか、そうじゃなくて……」
「はあ? 大体ざっくりしすぎやろ! 何が食べたいとか、誰と行くとかあるや……ん……? あ、わかったオンナか」
「な、は、早いですよ!」
こういう時の料理長は、嫌になる程勘が鋭い。長いこと、店の長として働いてきた賜物なのだろうか。
「で、いつ行くん?」
「明後日の……日曜日ですけど……」
「明後日の日曜日……」
デスクチェアをくるりと半回転させて、壁に貼られているカレンダーを確認した料理長は、日付を確認したのだろう。「やるなぁ〜」と呟いた。
「ちょっと、あんまりからかわないでくださいよ!」
「そやなぁ……」
腕を組んで、何かを考える料理長。そこにタイミングよく現れたのは、料理長の奥さんだった。
「あら萩くんお疲れ様」
「お疲れ様です!」
「あらごめんね、主人とお話し中だった?」
「あーコイツな? 日曜日デート行くからおすすめの店教えろ言うてんねん」
「あら? あらあら〜! 日曜日……」
カレンダーを確認した奥さんは、「バレンタインじゃないの〜」そう言って口を押さえて上品に笑った。そして、「若いっていいわねぇ」そんなことを料理長に言った。
「……で、どこに行こうか悩んでるのね?」
「そうなんですよね」
「んー……そうねぇ。あっ、萩くん、知ってる? 最近ここら辺にね──……」
*
二月十四日。日曜日。なんとしてもシフト通りに退勤をしたいと思いながら、仕込みや、調理を進める。ちなみに、料理長からは十分に一回くらいからかわれた。
「じ、じゃあお疲れ様です!」
退勤して、賄いも貰わずに急いで着替えて出て行く僕を見ていた先輩アルバイトが、料理長に「どうしたんですかねえ?」なんて質問したのが聞こえた。
*
「ごめん、待った?」
「ううん。あたしも今来たところ」
バイト先から、電車に乗って二駅。待ち合わせの改札前つくと、そこには涼しい顔をした芹さんが待っていた。今日の目的は、最近オープンしたらしい猫カフェと、夜ごはんにアボカドの専門店。
「あたし猫カフェはじめてなんだよね」
駅を離れて歩き出したとき、芹さんはそう言った。
「うん。僕もはじめて」
「地図見ないで道わかる?」
「うん、多分……。一応調べてきたから」
猫カフェまでは少し歩くけれど、道順自体はほぼ一本道。大通りから外れなければ、迷うことはないだろう。
駅から十分弱歩いて、目当てのビルに辿り着く。テナントの集まっている五階建てのビルの三階に、その猫カフェは店を構えていた。
階段で猫カフェ入口まであがり、受付を済ませて、注意事項の伝達を受けたらいよいよ入室。日曜日の昼過ぎだったけれど、思ったよりもスペース内は閑散としていた。
適当なところに腰をおろすと、物珍しそうに僕たちを一瞥する猫。入口で貸し出しされていたおもちゃの先端を、猫の目線の先に放る。床にぺたんと座ったまま様子を見ていた猫は、尻尾をひとつ揺らして立ち上がった。
「わ、すごい……!」
紐の先のおもちゃ目掛けて飛びかかる猫の動きは、重さを感じないほどに軽い。肉食獣の仲間であるというのも、納得である。
「ねー」
僕の左隣に座っていた芹さんが、右手をちょいちょいと動かして僕を呼ぶ。
「なに?」
僕がそう聞くと、芹さんは僕の耳元で呟いた。
「まわりカップルばっかりだねー」
その言葉に、そっと辺りを見渡す。動きの止まったおもちゃは、猫に捕獲され齧られていた。確かに、同じ部屋内には、僕たちよりも少し年上に見える男女のペアが数組。どういう意図をもってそう言ったのかは、僕にはわからなかったけれど、素知らぬ顔で膝の上の猫を撫でている芹さんは多分きっと、何も考えずに言ったのだろうと判断した。
「芹さん、猫の扱い慣れてるね」
案外力強い猫からおもちゃを返してもらえず、半ば諦めながらそう言うと、芹さんは視線を猫に向けたまま答えた。
「んー……前によく柳先輩の家の猫撫でてたからかな」
柳先輩の家の猫。以前に見せてもらった、美人な黒猫のことだろう。
「ふうん……」
「ふうん、って。そっちが聞いてきたのに」
「あっ、確かに……ごめん。あの子名前なんていうの?」
「名前? ミケ」
「え? ミケ?」
「うん、そう。最初、パイナップルって名前付けようとしてたのにミケになっちゃった」
パイナップル……という名前もどうかと思うけれど、黒猫にミケと名付けるのもなかなか独特のセンスをしていると思う。
猫にまつわる色々な話をしている最中、おもちゃに噛み付いていた猫も、芹さんの膝の上で丸まっていた猫も、何かを察知したように耳を震わせて、入口付近へと向かって歩いていった。
「どうしたんだろう?」
よく見れば、他の猫たちも、入口──何かを持って入ってきたスタッフの足元に群がっている。
スタッフは、慣れた様子で気にも留めず、フロア内にいるお客さんの元へ次々と回っているようだった。そして、最後に僕たちのところへも。
「こんにちは〜。今日、バレンタインイベントやってまして。十五時から十六時入店のお客様に猫用のアイスをプレゼントしているんです。グループでひとつになっちゃいますが、よければ猫ちゃんにあげてみてくださいね」
手渡されたのは、手のひらサイズほどのオレンジ色のアイス。バレンタインだからか、持ち手の部分に小さなリボンが飾られていた。
他のお客さんのアイスには、何匹もの猫が集まっていて、それにあぶれた数匹の猫がこちらへ向かって歩いてくる。
あっという間に集まってきた猫たちは、各々マイペースにアイスを舌で舐めとっている。
「萩くん、こっち向いて」
「え、なに? 写真?」
「ううん、動画」
「芹さん、代わる?」
芹さんにアイスを手渡している間も、猫たちはそれから目を離さない。うっかり奪い取られないように注意しながら手渡して、手の空いた僕はスマホを構える。
「何撮ってるの?」
「んー……写真」
「じゃあ、上からちょっと角度つけて撮って」
「なにそのカメラマンみたいな……」
指示通り、立ち上がって上からのアングルでシャッターを切る。
画面の中央で芹さんは、猫に囲まれて困ったように、それでも楽しそうに笑っていた。




